左上のSEARCHをクリックすると、記事検索が簡単にできます
旭市の田んぼ風景01

道徳を重んじ家の存続を目的とする-「性学」大原幽学の理想の農村教育とは


大原幽学は、世界初の農業協同組合をつくった偉人です。
彼が教育の柱としていた「性学」については、内容がよく分からない方も多いのではないかと思います。道徳を含んだその考え方は、現代でも役に立つ考え方だと思います。再度見直したい考え方だと思いましたので調べて書いてみました。幽学の「理想の社会教育」を理解する一助になればと思います。




「大原幽学」1797~1858(寛政9~安政5)
江戸後期の教育家・社会運動家。神・儒・仏に通達、心学の影響をも受けて、千葉県に入り下総(しもうさ)香取郡長部に性理教会を建立。のち農村救済のため、農村教育を行い「先祖株組合」(今の農業協同組合)を組織、今日の産業組合運動の先鞭をつけたが、幕府の抑圧を受けて自刃。







幽学の生い立ちを簡単に




幽学は1797年(寛政9)尾張徳川氏の重臣大道家の次男として生まれているといわれるが、はっきりしていない。
18歳の時に親から勘当され家を出る。藩の剣道指南役をあやまって殺してしまったことが理由と言われている。家を出た幽学は最初の10年間漂泊をしているが記録はない。
1826年からは動向が分かる。幽学は1826年から1841年(文政9~12年)の間、口まめ草という日記をつけていた。滋賀県近江の伊吹山松尾寺の住職「提宗」に師事しました。生涯幽学が師と仰いだ唯一の人物です。
近畿から信州を漂泊、修行します。その間に様々の階層の人々と出会い見分を広げました。知識や思想を勉強して学問をを体得し指導者としての才能を磨いていきました。
幽学は1831年(天保2)に知人の勧めもあり鋸山の見物をするため船で房総につきました。(千葉県)下総「干潟町の長部村」に落ち着いたのは幽学46歳の時でした。彼は社会教育という理想を実現するために自分のすべてを農民に捧げました。




彼の思想は「性学」といわれます。
中国の古典である「中庸」「孝経」といった儒教の考え方が中心になっています。
幽学が書いた書として「微味幽玄考」があります。この書には和と孝をもとに道徳を重んじ「家の存続をはかること」を目的として書かれています。







「性学」について調べてみました




幽学は神学・仏教・儒学を学んでいる。儒教の考え方をその中心にしている。
【性学とは】
「性」とは人間の持つ本性、つまり「本心や良心のこと」。
この性に従って生きるのが道である。この道にすすむための教えが「性学」である。儒教の和と孝の考えをもとにして道徳を重んじる。家の存続を目的としている。
親兄弟を敬い、禁欲的で規則正しい生活の大切さを説いている。身分や資産にあった分相応のおこないをするのが大切だと説いた。
幽学は武士の出身であり当時の身分制を肯定していた。当時の一般的な道徳的考えであった。理想を振りかざすのでなく、農民の生活を考えて様々な仕法を指導をしていたことが分かる。




幽学の「先祖株組合」は世界初の農業協同組合として有名ですが、他にも優れた方法で「農民教育」を行いました。
科学的に理論立てて説明できるような施策を提案指導しています。
*「先祖株組合」はその一部で代表的なものでした。
他にも沢山の指導を行っています。以下にその指導の一部を書き出してみました。




【理想的な農家集落を作る】




宿内集落の造成(開拓村の造成事業)
耕地を整地する事(約1反の水田など)
土地の交換
住居の分散移転:住居を耕地の見える場所に移動することなど。
先祖株組合を作る:生活を安定させて家の存続をはかる。
共同購入・生活改善・家屋普請(建物の建築提案)・丹精(労働奉仕)・医薬。




【計画的な農作業実施のために】




農業指導:正条植(水田による米の生産)の導入
年中仕業割日記控え:年間の作業計画表を作成させた。農民に計画の大切さを伝えると共に休養も重視した。
聞書集の作成:主に日常的な農作業について幽学の語った事を口語体で記録したもの
・幽学の死後は『三幅対』という教えを書いたものが重用されました。




【作業効率アップのための道具】




幽学万能(鍬):歯先が長く土が付きにくく軽い。作業効率アップにつながる道具だった。小見川の鍛冶屋に頼んで作ってもらったという。




【社会教育:性学】




改心楼(教導所)の建設
女性・子供に対しての教育
・道徳:倹約の推奨
・優れた門人には景物と称して鏡や櫛、短冊を与えた。




幽学は「年中仕業割日記控え」にて年間の作業計画表を作成させた。農民に“計画の大切さ”を伝えると共に“休養の大切さ”を伝えました。計画表には修養日の〇や半日休みの△も書かれています。
修養日とは幽学の「性学」を学ぶ日でした。農作業の合間に勉強を挟むのは、非常に意義のあることでした。




性学の学びの機会に皆が集まることで、農家同志の交流が深まります。集落がまとまり「先祖株組合」が生まれる土台にもなったのではないでしょうか。







まとめ




房総に入る前、幽学33歳の時には漂泊中の長野上田の小諸で地元の名士ともしりあい、初めて自分の道学を開講・1年間教育をしました。そして多くの門人を集めましたが藩から受講の禁止令が出されます。圧力もあり上田を離れ江戸・鎌倉を見物します。
そして幽学は1831年(天保2)に知人の勧めもあり鋸山の見物をするため船で房総につきました。
彼の教育については上記記事にてかきましたが。農民に寄り添った指導は農民には受け入れられました。しかし今回も幕府の圧力で教育は頓挫してしまいます。




干潟町の長部村に落ち着いたのは幽学46歳の時でした。武士の出身である彼が知らない土地ですぐれた農業指導が出来たのも、彼の人格もさることながら、漂泊中に彼が習得してきた見識や知識が土台にあったことは間違えありません。
彼は社会教育という理想を実現するために自分のすべてを農民に捧げました。




上田で圧力に負けず新天地を求めて、初めての土地(千葉県)下総で彼の教育が花開くことになったのも「社会教育をして多くの人を救いたい」という理想があったからでした。その結果世界初の農業協同組合である「先祖株組合」が生まれました。
幽学は逆境に負けず諦めない気持ちを持ち続け、理想を実現した凄い人でした。




*「大原幽学」に興味のある方は是非記念館にも出かけてみてください。
「大原幽学記念館」
場所:千葉県旭市長部345-2
電話:0479-68-4933




*最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考】「大原幽学-幕末の農村指導者」 千葉県立大利根博物館刊を参考にしました。
**大原幽学の偉業については下記の記事にて詳しく書いています。**