銚子外川イワシ漁の基礎を作った人「崎山治郎右衛門」

銚子市外川港はイワシの漁場として有名。

銚子市外川港-1
銚子市外川港-1

外川港でのイワシ漁の成功が後の銚子漁業の繁栄の始まりになりました。
その基礎を作った偉人「崎山治郎右衛門」をご紹介します。

金肥といわれた干鰯(ほしか)

【いわし(鰯・鰮)】
・(季・秋)イワシ科の硬骨魚類。
・まいわし。側面は銀色で青黒色のまだらがあり、海面近く群れをなして泳ぐ。

角川書店・国語辞典より引用
イワシ
イワシ

イワシのとれる場所は、千葉県では銚子市と九十九里浜が有名です。
九十九里浜は平坦で遠浅なので網を張る地引網漁が盛ん。
銚子は岩場が多いのでまかせ網(八手網)の漁法が行われていました。

江戸時代は獲れたばかりのイワシを砂場で干したものを干鰯(ほしか)といいました。
イワシの干鰯はミカンや綿、稲作の肥料として増産に貢献。
金肥といわれ重宝されていました。

【まかせ網とは】
外川の開祖と言われる“崎山治郎右衛門”が考案したイワシ巻漁。
(江戸時代初期から使われていたが、漁船6隻・漁夫が80人以上必要なこともあり効率的でなかった。江戸時代中期に至る間で衰退していきました。)

紀州から外川に来た漁師

外川とかいて、『とかわ』と読む。
銚子市の南東に位置する「外川」は、日本でも最高のイワシの漁場でした。
今回はその外川港の開祖といわれる「崎山治郎右衛門」の話です。

イワシ漁が銚子の漁業にあたえたこと

伝承によると、銚子は徳川・江戸時代前期はわずかな農耕と漁業で生活する一寒村だったという。
寛永(1624-1644)から正徳(1711-1716)のころ、紀州などから住みついた移民が増えていき漁業が盛んになっていき、安政(1854-1860)のころは、もっとも盛んでした。
元治元年(1864年)の銚子の浦は、イワシの山で歩くこともままならないほどの大漁であった。

イワシを追って紀州から来た漁師が住みついたのが外川であり、当時外川は千軒を誇った。
イワシ漁が「外川」を豊かにしました。
イワシ漁が“銚子の漁業”を支え繫栄する土台となりました。

「崎山治郎右衛門」が外川を干鰯の大生産地にした

慶長16年(1611)「崎山治郎右衛門」の父「頼安」は、広村で半農半漁を営み、“紀州広村の地主地頭”であった。
治郎右衛門はこの年に生まれた。
治郎右衛門は広村で半農半漁をしていたが、寛永15年(1637)27歳になったときに漁業に従事することを決めました。

彼はそれまで下総九十九里(現在の千葉県)でイワシ漁(春に来て秋に帰る)をしていた。
彼は本格的にイワシ漁をするため最適な港を探します。

近隣はほぼ他船が入っていたのだが「外川」には他船が入っていなかった。
明暦元年(1655)に、治郎右衛門は「外川」で一生一代の大事業・新しく漁港をつくることを決意した。
*崎山治郎右衛門は紀州の人ですが、イワシを追いかけ黒潮に乗って銚子に来たのです。

崎山治郎右衛門は江戸時代前期の明暦2年(1656)に外川港築港工事に着手し6年間で完成。
1658年に市街地工事に着手、碁盤目状の集落を整備しました。
また干鰯場開場、井戸の完成、仏教信仰の西方寺建立などを成し遂げました。
*外川には今でも銚子石を使った街区が残り、江戸時代の漁師町の面影を見ることができます。

*下の写真は大正時代の銚子外川の風景です。

昔の風景-銚子市外川
昔の風景-銚子市外川

外川浦は干鰯(ほしか)の大生産地をして、“外川千軒大繁盛”といわれた。
銚子は元々イワシの漁場として良い場所でした。
しかし外川港の繁栄は、崎山治郎右衛門がいなければありませんでした。

昭和58年、外川港の大杉神社境内に「崎山治郎右衛門」の銚子漁業発祥の地・外川を開いた業績をたたえて、子孫が記念碑を建立しました。

イワシの豊漁から生まれた歌「銚子大漁節」

銚子で祝い事などの時に歌われてきたのが銚子大漁節です。
江戸の末期・元治元年(1864)春に銚子は未曾有のイワシの豊漁で沸いていました。
漁師は大漁祭りをしようとしたが歌がなかったため、文人や網元、俳諧師の三人が歌詞をつくり作曲と踊りを依頼して完成させた歌でした。

『銚子大漁』
一つとせ 一番一つに積み立てて 川口乗込む大矢聲 この大漁船(ハアーコリャ コリャ 以下も同じ)

二つとせ ふたまの沖から外川まで つづいて寄來る大矢聲 この大漁船

三つとせ 皆一同にまねをあげ 通はせ船のにぎやかさ この大漁船

四つとせ 夜ひるたいてもたきあまる さんばいいつちょの大鰯 この大漁船

五つとせ いつきてみてもほしかばが あきまもすきまも更にない この大漁船

六つとせ 六つから六つまで粕割が 大割小割で手に追はれ この大漁船

七つとせ 名高き利根川高瀬船 粕や油を積みおくる この大漁船

八つとせ 八だの沖合若衆が 舞祝そろへて宮まゐり この大漁船

九つとせ この浦守る川口の 明神御利益あらはるる この大漁船
十とせ 十を重ねて百となる 千を飛びこす萬漁年 この大漁船

*『千葉県海上郡誌』より引用

大漁節の一番から十番までに、イワシ漁法や地名、干鰯や〆粕の技法、大漁の喜び、萬祝姿で川口神社へのお参り等が見事に表現されています。

「銚子大漁節」はイワシの大漁を願望する民謡として皆に親しまれてきました。
あたらめて歌詞を詠ってみると、当時のイワシの水揚げで沸いている“外川の人々の喜び”が伝わってくるようです。

イワシ船を見守る「崎山治郎右衛門の碑」

崎山治郎右衛門碑
崎山治郎右衛門碑

「大漁旗」は漁船から陸へ大漁を知らせます。
今年もイワシ漁の時期には、沢山の大漁旗がはためくのでしょう。
大漁旗は今なお技術が継承されています。
大漁旗は船の進水式に併せて寄贈される祝儀の意味もありました。

外川漁港を見渡せる位置に、崎山治郎右衛門の碑はつくられています。

*最後までお読みいただきありがとうございました。
「銚子半島の歳事風俗誌」大下衛著、東京文献センター刊、「銚子の歴史と伝説」秀英社刊、
「7つの銚子ものがたり」銚子資産活用協議会刊などを参考にしました。

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よろしかったら読んでみてください。