大原幽学と同時代に生きていた2人の偉人。 農村教育で有名な「二宮尊徳」と 有名な国学者「平田篤胤」。
彼らと幽学の目指したものとの違いを調べてみました。
幽学の優れている点が浮き彫りになりました。ご紹介します。
「大原幽学」「二宮尊徳」「平田篤胤」の簡単なプロフィール
「大原幽学」1797~1858
江戸後期の教育家・社会運動家。尾張藩(現在の名古屋市)出身といわれる。
神・儒・仏に通達、心学の影響をも受けて、下総(しもうさ)香取郡長部に性理教会を建立。
後、農村救済のため、先祖株組合を組織、今日の産業組合運動の先鞭をつけたが、幕府の抑圧を受けて自刃。
「二宮尊徳」1787~1856
江戸末期の篤農家。通称「金次郎」、名は尊徳(たかのり)。相模国足柄上郡(現在の小田原市)出身。
徹底した実践主義で、神・儒・仏の思想をとった報徳教を創め、自ら陰徳・積善・節倹を力行し、殖産の事を説いた。605カ町村を復興。
*篤農家:熱心で研究的な農業者。
「平田篤胤(ひらたあつたね)」1776~1843
江戸後期の国学者。国学四大人(しうし)の一人。出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。
本居宣長(1730~1861)没後の門人として古道の学に志し、復古神道を体系化。
地方の神職・村役人に信奉者を得、草莽の国学として尊王運動に影響大。
*草莽(そうもう):民間・在野。
【国学】とは
古事記・日本書紀・万葉集などの古典の、主として文献的研究に基づいて、特に儒教・仏教渡来以前におけるわが国固有の文化および精神を明らかにしようとする学問。
近世学術の発達と国家意識の勃興に伴って起り、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤(国学の四大人)とその門流によって確立された。古学。皇学。
出典:広辞苑第三版
国学者「平田篤胤」との違い:幽学は対話や質疑応答など地域交流の場をつくる
1833年(天保4)から幽学は千葉県北東部で活動を本格化する。東は銚子・西は成田・南は一宮の範囲を巡回し始めた。社会教育を意識した活動をした。「馬鹿先生」と呼ばれながらも人々の信頼を得ようと必死になって活動を続けました。
【なぜ、幽学は“馬鹿先生”と言われたのか】
幽学が下総に来る以前1816年・1819年は国学者・平田篤胤が自身の学問を広げるために下総を巡っています。平田は自身の学問である“この世の幸せを求めて死後の霊の行方に重きを置き、霊の安定を神道に求める復古神道”を説いていました。
そして下総で門弟を獲得していきます。
しかし数年後1833年に下総に入った大原幽学は、江戸に先生(師)がいて学問を持っているわけではなく、政治的なパイプという箔もありません。皆の興味をひく多彩な知識はありましたが専門性には欠けていました。
これは推測ですが、学閥が無くて文化人でもない幽学が軽んじられたのも仕方がなかったのかもしれません。
一方幽学が「馬鹿先生」を親しみを持って呼ばれていたことをみると、今でも農家の間では“学者は経験のないから片側からしかみれない人”なので、当時の幽学は農家の懐に入っていた人と言えると思います。
「人間関係の構築」幽学の農民に対してのアプローチ
平田篤胤の門弟は比較的に経済的に余裕がある人たちだった。
幽学の交友関係も最初は香取神宮の神主や八日市場の商人、屋形村(横芝光町)の網主、西足洗(旭市)の名主、銚子陣屋の武士などでした。関西地域で社会勉強・活動をしてきた幽学の経験が役立ったであろうと思われます。
しかし巡回を続けているうちに幽学は「困っている農民」に目を向けていきます。閉鎖的な農民にアプローチするのは難しいことでした。
平田篤胤と違い名前が知られているわけでもなく確固たる学問もありませんでした。
そこで幽学は農民に指導するために様々な活動をしていきました。
彼は人々の興味を知りそれに合わせることで信頼を得るための努力をします。次第に道徳なども加えました。
対話や質疑応答など地域交流の場を大切にしていました。
幽学は人々との関係を深めるために大切にしていたこと。
・易学・人相学をきっかけにして生き方や道徳を話します。占いはそれ自体が目標ではなくて、前向きな生き方を示唆するための道具でした。
・相手の興味のあることを話してもらいます。会話が深まり心を開いてもらい理解がすすむことで、幽学の人格をしってもらい魅力も発信できます。お互いが共感できることを知ります。それによって影響力を持っていきます。
・幽学は「性学」の教えを知ってもらうために、一方的な講義にならないように細心の注意をしました。
そのために入札・廻文・突き合わせ・心得などで指導をする。
入札は道友が札に文章を書くことをいう。会合の席で行うものと、廻文(道友間で回覧する)で行うものと2つの方法があり。注意書きの場合と、質問書を回覧して入札で回答を求めるものがありました。
付き合わせは意見交換や討論を実施することであった。
相互交流を重層的に行うために必要な道具でした。
心得は箇条書きで守るべきことを短く分かりやすくまとめていました。
*幽学は決して急ぎませんでした。
理解を深めるために様々な道具を用いてました。
あせらないし理詰めに相手を追い詰めることもありませんでした。
相手の信頼を得ることを最初にしました。
人によっては和歌をつくったり、桜をみながら酒をのみかわすなど交流を深めました。
1日が終わった後に明日の予定などを話し合う「宵相談」を実施して百姓のやる気を引き出した。
性学を広めるために行程を大切にしました。このシステム作りが後の農業協同組合に繋がっていった。
幽学自身の考え方も含めて柔軟に変えていったのだと思いました
「人を教えるには聞く道を持たないうちはだめだ。人間関係が出来てから指導するのが早道だ」と。
農民指導者:大原幽学と二宮尊徳との違い
幽学と尊徳の類似点と相違点
二宮尊徳と幽学はすぐれた農民指導者として知られていました。
2人とも江戸末期に関東で農業指導をした偉人です。
幽学は「先祖株組合」を結成しましたが、尊徳は相互扶助の組織である「五常講(仁義礼智信)」を結成しました。
二宮尊徳は熱心で研究的な農業者です。
そろばんの才能を見出されて幕府の役人となります。百姓を指導して町村の復興に尽力しました。
600もの村々を復興させるなどその仕事は銅造になり皆の見本となるなど凄い偉業を成し遂げました。
お互いに農村のことを考えて仕事をしました。
【似ているようで違うのはその生い立ちと背景でしょうか】
尊徳は「農民の出身」で官に仕えて武士として死にます。尊徳は幕府の普請役に抱えられ政治権力がバックにあり主に村を単位として指導ししました。
一方幽学は「武士出身」なのに農民に寄り添い自分で習得した農業技術を農民に指導しました。
幽学は政治権力と無縁であったので農民の中に入り家族や個人の生活を守るにはどうしたらいいのかを考えたのでした。女性や子供の教育にも注力しました。
農民出身の尊徳には幕府に近い人間でした。
農村への接し方には疑問があったのかもしれませんが、農業復興をはたすために粛々と仕事をこなしました。
彼独自の理想を持ちながらも「役人の壁」に対しては、彼らの力を利用しました。度重なる災害のなかで苦しむ農村の復興を優先しました。ある意味とても合理的な考え方を持っていたのではないかを思います。
しかし武家出身の幽学には幕府のやり方に対しての不満の記述はのこっていません。
農業に対しての知識は尊徳ほどは持っていなかったはず。
しかし浪人時に様々な階層の人々との付き合いからお金持ちにも「心ある人」もいることを知ります。
彼らと繋がる方法も得ました。先祖株組合がつくれたのも彼らから資金を集められたからです。
なので幽学は仮に農村に対しての幕府の政策に疑問があっても、今までの地主と小作人という上下関係を維持しつつも、それを超える仕組みをつくろうとしていました。
小作人には小作人なりの自分があってそれを尊重する事が大切だといっているようです。
最後に
幽学の考え方“自分の生活限度を知り合理的に働く”ことである、幽学の「分相応」と尊徳の「分度」は似ています。哲学的にも尊徳は「人のために生きるは天地の道である」と語っていて幽学と似ていました。
しかし幽学は農民の中で生きて死んでいきます。長いものに巻かれっぱなしをよしとしない。「分相応」に生きることを大切にする。人間関係を作り個々の人間を尊重する。そんな精神が潜んでいました。
彼はその人生をかけて人々の生活に寄り添いました。社会教育を上から進めるのでなく皆の意見をまとめながらすすめました。
幽学先生の教えは「真に暗闇の夜に足元にともし火をかかげる如く」であった。
彼の指導法を称して彼の高弟が語った言葉です。
先生に会うときはその度ごとに心豊かに快く、ただ穏やかになり、その理を知ることが生きる糧になったといいます。
人間関係をつくることを大切にする偉人でした。
大原幽学は農民に対してのアプローチは、後に役人になった合理的で経済感覚に優れる「二宮尊徳」や国学者として有名だった「平田篤胤」とは異なりました。
幽学の教えは一見回り道のようですが、その幽学の姿がのちに農民を変えていき「先祖株組合」をつくることになります。
時代が大きく動いている江戸時代末期に、経済優先や思想・学問とは異なる“社会教育という生き方”を模索した。だから弱い立場であった農民が立ち上がり「相互に助け合うしくみ」をつくることが出来たのだと思います。
この時代は、天明の大飢饉(1783)・利根川の大洪水・浅間山の大噴火など災害に始まり全国的に大飢饉に見舞われていました。
農村は大飢饉で苦しんでいました。
今回紹介した3人に共通していたのは国の将来を憂いていたということでした。
特に大原幽学と二宮尊徳は農村で苦しんでいる農民を救いたいという志を強く持っていたと思いました。
*最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考文献】
「大原幽学ものがたり」鈴木久仁直著 アテネ出版社刊
「大原幽学と百姓たち」菱沼達也著 崙書房刊
大原幽学-幕末の農村指導者 千葉県立大利根博物館刊
大原幽学物語 猪野映里子著 TADAYA刊を参考にしました。