皆さんこんにちは。大原幽学遺跡史跡公園に行ってきましたので、ご紹介します。
千葉県旭市は、幕末の農村指導者「大原幽学」の活動拠点でした。
昭和62年に史跡公園として整備され平成8年には記念館が開館しました。
今回は大原幽学記念館の周りを取り囲む遺跡史跡公園を歩きました。
幽学が昔住んでいた旧宅や教導所跡を見ることで、彼の姿を偲ぶことが出来ました。
駐車場に車を停めて、28号線を横切り公園・記念館方面に向かって歩きます。
国指定史跡「大原幽学遺跡史跡公園」
住所:千葉県旭市長部(ながべ)339 (TEL)0479-68-4933
公園内の入園は無料になります。
*公園のおおまかな位置は下記地図を参考にしてください。
駐車場①から大原幽学遺跡史跡公園の入り口に到着しました。
下が入り口にあるご案内の看板です。
これから②旧林家住宅、③旧宅、④大原聖殿、⑤龍ヶ谷、⑥大原幽学記念館の横庭へと順番に歩いていきます。
【注意】下記の写真は、私が現地にある看板に“黄色文字・赤のマーカーにて”順路を書き足しています)
大きな石が坂道をつくり、上まで続いています。
大原幽学遺跡史跡公園の大部分は中世の砦跡(長部城址)です。
国指定史跡なので昔の景観を保つようにつくられているそうです。
足元に気を付けて石段をゆっくり登ります。
大原幽学が初めて長部村(ながべむら)を訪れたのは1835年(天保6)です。
名主であった遠藤伊兵衛の依頼によるものでした。
*当時千葉県東部は「天保水滸伝」に描かれているように混乱の時代。
長部村も離村する人や博打など、村の退廃に名主は悩んでいました。
入り口から石段を登り切りました。
右を見ると石の階段があります。上ると「旧林家住宅」です。
左に小さな門が見えますが、「大原幽学旧宅」と「大原聖殿」方面になります。
最初に右側へ、旧林家住宅を見学します。
広大な敷地の奥に「旧林家住宅」(千葉県指定無形文化財)がありました。
母屋と書院が一体になった木造平屋茅葺き寄棟造の合理的な農家建築(58坪)です。
ナンド・シタベヤは独立性があり、ダイドコロも広く押し入れや渡り廊下もある合理的な造りとなっています。
現在の住宅は昭和63年に復元移築されたものですが、最初に建てられた1844年(天保4年)の銘があります。
幽学の高弟でもある林伊兵衛(十日市場:今の旭市)の住居です。
大原幽学の設計です。
大原幽学遺跡史跡公園のリーフレットの写真を見ると住宅の後ろ側に桜が沢山見えますので、春は華やかになるのでしょうね。花見の見物客も増えるのだろうと思います。
道を先ほどの二股まで戻って大原幽学の「旧宅」に向かいます。
大原幽学遺跡史跡公園の高台にある「旧宅」です。
8畳二間と台所便所押し入れなどがあり質素で丈夫な造りです。
大原幽学の居宅であり教導所として使われていました。幽学の設計です。
1842年(天保13年)に住居として改築されたそうです。
(屋根は元々茅葺きでしたが大正末に銅板に改修されたとのこと)
旧林家住宅も彼の設計であり、幽学は建築の知識も持っていたんですね。
旧宅から大原聖殿方面に向かいます。
下記写真の木々の間から下に見えている水田は「耕地地割」されている水田で、貴重な史跡です。
さらに下にある写真は“耕地地割が行われた水田”の近景になります。
【耕地地割】
大原幽学が天保年間に門人の協力を得て耕地整理を行った字八石(はちこく)の水田。
“当時の区割りを残している貴重なもの”で国指定の史跡です。
幽学は農民のことを考えて「先祖株組合」(今の農業協同組合)を作ります。
彼の教学をもとに生活の仕方や稲作の方法、耕地整理まで行いました。
遺跡史跡公園のなかほどにある「大原聖殿(改心楼跡地)」です。
この地は大原幽学生前に教導所「改心楼」があった場所です。
写真の建物は幽学の80年忌である1937年(昭和12)に建立された大原聖殿です。
高台は見晴らしがよく、適度に木々に囲まれて静かで、水田も見えます。
導友が集まる教導所としては最高の場所であったのだろうと思いました。
改心楼:【教導所であり、幕府の弾圧を受け取り壊された】
1850年(嘉永3)改心楼は、門人の増加に対応するため造られます。
(多い時で400人近くの門人が集まったそうです)
しかし改心楼の建設と宿内の造成は、幕府の嫌疑を生みました。
幽学が幕府ににらまれるきっかけになりました。
そして1852年(嘉永5)に関東取締出役の手先が改心楼に乱入する事件が起こりました。
この事件が発端となり幽学は取り調べを受けることになります。
約6年間にわたる審理で判決が下ったのは1857年(安政4)でした。
名主遠藤良左衛門への罰金、改心楼の取り壊し、先祖株組合の解散が言い渡されます。
幽学は江戸で百日間の謹慎、改心楼は幕府によって取り壊されました。
謹慎を終えて幽学が戻ってきたのは1858年(安政5)です。
変わり果てた村に戻った時に、彼がどう思ったのかを考えると切なくなりました。
ここから大原聖殿の後ろにある山道を登ります。さらに高い場所に向かいます。
長部城の跡地に到着しました。
白い杭に“長部城址”とあります。
中世の城郭である長部城の跡地で、砦の機能を果たしていた場所です。
*公園内の大部分が砦の跡地であり、高台の龍ヶ谷を中心に物見台と空濠の一部の跡があります。
千葉一族である松澤氏が9代にわたって居住していたといわれています。
杭から真っすぐにすすみ、さらに右に一段上がります。
一番高い場所「龍ヶ谷」へ。大原幽学頌徳碑や記念碑のある場所です。
龍ヶ谷(りゅうがや)は、1857年(安政4)に幽学の門人たちが三神を祀る聖地として作られたと言われています。
大原幽学の頌徳碑(ひょうとくひ)があります。他にも門人たちに関する石碑が建立されています。
高い木に囲まれたとても静かな場所です。
空気が美味しく森林浴ができます。気持ちも洗われるようです。
散歩道を通り下へ、大原幽学記念館の横庭に。
庭園も池の周りに木々が配置されていて見事です。
大原幽学遺跡史跡公園を入り口から記念館横までひと回りしました。
この公園は史跡として整備されているので昔のままの景観が残っています。それが魅力の一つだと思います。
ただ昔のままの坂や階段もありますので、散歩する際には注意をして急がず歩くことをおすすめします。
長くなりましたので今回の散歩は終わりにします。お疲れ様でした。
*大原幽学記念館については次回の記事でリポートします。
興味のある方は大原記念館公式ホームページものぞいてみてください。
(外部サイトへつながります)
*最後までお読みいただきありがとうございました。
*史跡文化財の説明については、「大原幽学遺跡史跡公園リーフレット」「各史跡にある看板:千葉県教育委員会・旭市教育委員会作成」、「大原幽学物語」猪野映里子著多田屋(株)刊を参考にしました。