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大原幽学の肖像画

「大原幽学」千葉県旭市で先祖株組合(農業協同組合)を作った-農村の未来を考えた人


大原幽学(1797~1858)は千葉県旭市で先祖株組合を作った偉人です。縁があって下総に入り農村で農民の生活を良くしようと努力した。農民には『馬鹿先生』と呼ばれたが、 農村の未来を考え良くしようと様々な施策を農村で実践した。偉業の割にはあまり有名でないのはどうしてなのでしょうか?
疑問がでてきました、彼の人生を色々と調べてみました。
そこで彼の生き方に見えてきたのは二つのキーワードでした。
「人間関係をつくり信頼をえる」
「柔軟な考え方をもって変化に対応する」ということです。




大原幽学は、世界で最初に農業協同組合をつくった人という事で有名ですが、そこに至る過程には地道な沢山の努力がありました。彼は農民に「馬鹿先生」と呼ばれ慕われていました。武士の出身でしたが、決して上から目線の人ではなかったのです。努力の人でした。
彼を突き動かしていたのは、貧しい農民に教えを説いて農村を豊かにしたいという強い欲求でした。彼の社会教育の土台であった「性学」からその足跡のほんの一部を書いてみました。




大原幽学の肖像画
大原幽学の肖像画







大原幽学の生い立ちから成長の歴史を簡単に。




幽学の生い立ちははっきりしていない。
・寛政9年(1797)の生まれ
・幽学は「尾張(名古屋藩)徳川氏の重臣大道寺家の次男」と語る門人もいた。
武士の出で武士教育を受けた。
18歳の時に家を出た。(*藩の剣道指南役を誤って刺し殺してしまった事で親から勘当されたともいわれている)
・和歌山県高野山の大きな寺や滋賀県伊吹山の禅寺で計5年間修行する。




これ以降は「放浪(漂泊)の旅」が始まり日記によると京都・大阪を中心に漂泊していた。神学・仏教・儒教を学んでいる。
放浪している時期、関西の色々な人々との出会いで見識や知識をひろげた幽学。社会教育が自分のなすべきことと思い東を目指しました。しかし江戸で教育を広めようとするも、幕府の直轄下ではむずかしかった。
江戸から上方に戻ろうとしていた時に、鋸山見学を進められて千葉に入ったことが下総との縁を作りました。人に教えを説くことで農民の生活に自分の知識を使うという新たな役割を見出しました。




社会教育に意義を見出して、それを多岐にわたる自分知識を駆使して実践していきます。下総に入ると困っている百姓のためにつくすことを選びました。
「先祖株組合」をつくるにあたり百姓から1家あたり会費1年5両をあつめることになったのですが、小さな農家に出資を募ることは無理でした。
そこで幽学は地元の網元・酒屋・質屋など有力者に資金は戻ってくるからと説得して出資をつのったのです。農業の立て直しは地域皆の仕事であり資金は無駄にならない、必ず戻ってくると説得したのです。人間関係が築けていたから出来たことでした。
今でこそ当たり前の協同組合ですが、この時代にその仕組みをつくろうとした努力は大変な力が必要だったと思います。自分の生活を横において飛び回るその仕事は凄いものであったといいます。




彼らの生きていた江戸末期とは~千葉県北東部の状況




江戸時代末期、千葉県北東部は度重なる飢饉(1832年天保3年:天保の大飢饉)で農村は大きな影響を受けました。農業で食べることが出来ず出稼ぎに出たり、ばくちに手を出す人間が出るなど農家は半数近くに減っていました。村の様子も荒れ果てていました。
【時代背景】江戸が日本の中心になり人口が増えて、銚子の鰯やカツオが江戸に運ばれるようになった。利根川での物流が盛んになり人・モノ・カネがあつまり沢山のお金が動きました。これに寄生する形で博徒が活躍したのです。「天保水滸伝」に代表されるように混乱の時代、飯岡の助五郎と笹川の繁蔵の血戦が行われたのもこの地です。関東一円は行政区が複雑で取締りを強化する必要がありました。
*幕府の関人州取締後の陣屋ができた。幕府は行政区を越えて博徒らを取り締まるために「関東取締出役」をおいて情報を収集していました。広域に捜査を可能にするために“裏の世界の人間も利用する”という矛盾のある警察でした。




幽学は房総へ~「性学」の教え。先祖株組合(農業協同組合)をつくる。




1831年(天保2)幽学は江戸から船で房総に入ります。知人から鋸山を見物してはどうかといわれたのがキッカケでした。幽学は下総に入り銚子、一宮、鏑木(旭市)、屋形(横芝光町)、殿部田(芝山町)、飯倉(匝瑳市)などを巡回して「性学」を説いていました。




【性学とは】
幽学は神道・仏教・儒学や易学などから影響を受けています。「性学」は、儒学の中庸・孝経といった儒学の考え方をもとにして、幽学が解釈を加えた学問です。「性」とは人間のもつ心を意味しています。彼の本には「和」と「考」の考え方を中心においた道徳が大切だと書かれています。「家と家族を守っていくには、仲間を大切にすると、親兄弟を大切にするが大切なのだ」と。




1835年(天保6)幽学は長部(ながべ)村(今の千葉県旭市干潟町の一部)へ訪ねていく。長部村は戸数も減りじり貧の村であり、名主の遠藤良左衛門は村を救おうとし講義を聞きに来ていた。彼は幽学の話に感銘を受けます。幽学と親交を深め彼の人となりを信用した良左は、幽学の考えに賛同するようになります。彼の指導もあり「どの家も長く続いて先祖を喜ばせることができること」を目標として先祖株組合をつくった。
*幕末は武士よりも農民が大切な世の中になってきていた。商人を中心とする経済が進行してきたこともあった。
幽学は今まで“関西地域で農家の手伝いをしていた経験”から、下総に住むことになり、あらためて農民の生活ぶりを見ることで問題点もみえたでしょう。農業に対しての愛情もわいてきたのではないだろうか。




彼は農業に季節ごとの収穫・仕事の計画・家族(労働力)の配置など仕組みをつくっていった。農業の技術改善として「正条植」の導入、1年の仕事の予定表「仕事割」、指導の時間「宵相談」の実施などです。(他にも各種の仕法を提案しています)
幽学の農業に対しての考え方は、上方や関東の遊歴中に学んだことがベースとしてあり「労働」が中心になっていた。“商売の繫盛も心持は農民が植物を育てるような気持ちが良い”というまでに農業に傾倒していった。
下総では幽学は人を訪ねて人間関係を作った。
長野の上田や小諸に住んでいた時は弟子の方から集まってきたのですぐに指導できた。しかし千葉に来てからは「あいさつ」から始まり人間関係を作り先祖株組合が始まると、農民の生活をどう組み立て計画するか・実行するかに注力した。




この地域に「先祖株組合」が生まれたのは3つの条件がそろっていたためであった。
①村の経済が商業的にすすんでいること。それは村の位置や地形などで決まりある程度の需要がある場所。
②住んでいる人は幽学の性学(人間学)に賛成する人たちが多くいること。
③色々な階層(身分)の人がいて援助が得られた環境にある。人々の共同出資があってつくられた。
幽学の考え方「性学」が色々な人たちを巻き込んでいったのは間違えがありません。幽学は農民に対して“農村の希望を提案した”ともいえます。







改心楼乱入事件と幽学の罪、裁判の長期化、幽学の最後




彼の志は農業協同組合として今現在広く日本に拡がっています。優れたシステムがどれだけ沢山の人の生活に利益をもたらしたことでしょうか。
しかしこの時代幕府は、幽学の動きを「不穏なもの」として取締りました。幕府は生産地である農村の変化、足元のシステムが勝手に変化していくのを恐れたのかもしれません。




幕府に目を付けられたきっかけは、「改心楼の建設」ではないかと言われている。




1842年(天保13)長部村八石に幽学の住居でもあり教導所が建設されていました。次第に彼の考えが広がるにつれて、巡回指導から「センターにて教育をする方法」に変わっていきます。道友も増えて教導所は手狭になり専用の教導所「改心楼」を建設することになりました。道友の労働奉仕などに助けられて1850年に完成しました。




性学の拡大により農村は復興に向かうが、関東取締出役は人を集めたり耕地整理をすすめていた幽学の動きを問題にして調査を進めた。そして拡大を喜ばない博徒により、「幽学に入門したいと無理難題を付きつけたゆすりまがいの事件」(牛渡村一件)が起こってしまう。かれらは地場でばくちや遊行で生きていたのでそれらを禁ずる幽学は邪魔な存在だった。
博徒は関東取締出役とも繋がっていて幽学は不利な立場になり、結果1852年(嘉永5)2月勘定奉行所の取り調べが始まる。5月には小見川藩領など彼の活動範囲だった村々に、領主から性学禁止の命令が出されました。
*これ以降の7年間は「七ヶ年の災難」と言われた。




裁判は長期にわたり、幽学や道友の裁判費用や江戸の滞在費などの負担は相当なものだった。裁判は長期にわたり幽学や支援者の体力を奪っていきます。
性学も危機になり道友はアルバイトやその子供たちの奉公による給金などでカバーするようになる。




裁判は1857年までのび判決が下された。




博徒など乱入者は有罪。幽学も有罪となった。有罪の理由は、正式な手続きなしに長部村に居住したこと、改心楼の建設は農民にふさわしくない、身分不相応な独断的な教説を説いたこと、先祖株組合を結成と領主の権限に触れて耕地を整理して共有制度を導入したことだった。
封建社会では仕方のないことだったのかもしれない。先祖株組合は解体・改心楼は取り壊し・幽学は100日間の謹慎を命じられた。
謹慎期間が終了して幽学は長部村に戻るも、教化活動の禁止も命じられていたので長居は出来ず。幽学は自分の存在そのものが道友にとっての負担となり迷惑をかけるかもしれないと考え始めました。




道友は彼の様子を心配して監視していました。しかし目を盗んで大原幽学は外出します。幽学は安政5年(1858)長部村の山の墓地で切腹して亡くなりました。満61歳でした。




大原幽学の死後、彼の意志は門人に受け継がれたのか?




大原幽学の死後、彼の意志は門人に受け継がれたといいたいのですが、実際は違っていました。幽学が弾圧されて自殺した後、リーダーであった二代目遠藤良左衛門は弾圧を受けて旅先で病死します。三代目の石毛源五郎は内部の抗争の結果、追放されました。




*一方同時代に農村教育を推し進めた「二宮尊徳」は全国的に有名になりました。それは時の政権に利用された事もありました。彼は1856年(安政3)70歳で亡くなりますが、彼の弟子は後継者として育ち、明治政府の後押しもあり「報徳仕法」を全国に広めていきました。




幽学の実行力は凄いものですが、そのベースにあったのは「社会活動に対しての教育の大切さ」と、それを実現するために用いた“地域の人々と関係をつくる人間力”であり“柔軟な考え方”でした。




武士の出身でありながら、厳しい時代に身を投げ出して農村のために働いた。大原幽学の偉大さが少し分かりました。
皆さんはどれだけご存じでしたか。
*最後までお読みいただきありがとうございました。




【参考文献】
「大原幽学ものがたり」鈴木久仁直著 アテネ出版社刊
「大原幽学と百姓たち」菱沼達也著 崙書房刊
大原幽学-幕末の農村指導者 千葉県立大利根博物館刊
大原幽学物語 猪野映里子著 TADAYA刊を参考にしました。