右上のSEACHマークをクリックすると簡単に検索ができます。

榎本武揚-彰義隊-奥羽から蝦夷地-戊辰戦争終わる-銚子黒生「美加保丸顛末」後-3

ここからは「彰義隊」の美加保丸事件後の歴史について書いています。
旧幕府軍の艦隊と新政府の艦隊の動きを入れながら「彰義隊」「旧幕軍」の歴史を断片的ではありますが抜き出してみました。(艦隊の動きとして艦隊名を「」にて、事件に書き足しています。)
*この記事は下記2本の続きになります。流れが分かりやすくなりますので「美加保丸前~-1」と「美加保丸~-2」を先に読むことをお勧めします。

最初になぜ旧幕軍や彰義隊が北を目指したのかについて、1867年まで戻りその歴史を簡単に書いてみました。

1867年(慶応3年)12月9日王政復古の大号令が発せられた日の夜半、徳川氏処分の御前会議が開かれていました。(慶喜は列席していない)
薩摩・岩倉は天皇という大きな権威を後ろ盾に会議を進めていきました。山内豊信らの徳川擁護意見にもかかわらず、薩摩・岩倉は慶喜に「内大臣職の辞職」「徳川家の七百万石の半分を朝廷に返す」という屈辱的な要求をしてきます。
*薩摩・岩倉は、大政奉還には「慶喜の含みがある」と考えた。それを無にしたかった。
要求は、三百年に近く続いてきた徳川幕府の解体をしろというものでした。 徳川は1国を統治してきた政治団体であり反発は必然のことでした。 その徳川「旧幕臣たちの爆発力」は抑えられるものではなかった。
鳥羽伏見の戦いが起きて幕府軍が敗れた後も、幕臣達の意志は変わりませんでした。
運命か、榎本武揚は旧幕臣や彰義隊を率いることになる。彼は徳川家の将来を蝦夷地に求めました。蝦夷地に渡り徳川を中心とした政府の樹立という構想を持ちます。幕府が所有していた艦隊を武器に「蝦夷政権」を目指して蝦夷地に渡ります。
しかし天は彼らを味方しませんでした。多くの困難が彼らを襲うことになりました。

品川から軍艦が輸送船を曳航し出帆するも、大風に見舞われて2艦を失います。曳航があだになります。積み荷や軍兵戦力も失う中、奥羽に向かうのでした。
しかしその時すでに奥羽越列藩同盟は新政府と激闘し分裂していました。

銚子沖で美加保丸を失った艦隊は奥羽へ向かっていました。

「彰義隊」の美加保丸事件後の歴史

彰義隊は奥羽越列藩へ

船体が破壊して満身創痍の「長鯨」は松島に向かい8月24日松島湾に到着、つづいて「千代田形」も着きました。「回天」は26日、「開陽」は27日、「神速」は9月5日、「蟠龍」は18日に到着します。(「千代田形」「長崎」は庄内藩の援軍のため9月18日に出港)

8月22日松島に上陸した榎本武揚でしたが、米沢藩は降意を示していた。新政府軍の前に会津藩の籠城戦。奥羽越列藩同盟は敗色濃厚で、同盟諸藩は降っていった。

会津藩をすくうべく仙台藩に向かうのだが、北上する新政府軍を前に榎本らの説得も聞かず、9月15日仙台藩は降伏の使者を派遣する。
15日奥羽の形勢が変化したことで仙台に駐留する意味を見出せなくなった榎本は、暴風雨で破損した艦船の修復を待って、旧幕府陸軍とともに以前から計画していた蝦夷地へ渡ることを決める。
榎本は徳川家の血脈による蝦夷地の統治を構想していました。

*仙台藩には旧幕府が貸与していた「大江」と「鳳凰」という帆船があったので、それを失った「美加保」と「咸臨」の代わりとした。

9月22日奥羽越列藩同盟によって擁立されていた輪王寺宮は仙台で新政府に謝罪状を出して、仙台藩とともに恭順することになった。

【輪王寺宮(りんのうじのみや)】
天皇家の一族「伏見宮邦家親王の第9子」。1858年(安政5年)に江戸に来て上野輪王寺に入った。朝廷と幕府間の斡旋役になっていた。

蝦夷地渡航

10月9日、旧幕艦隊は松島湾の東名浜より折浜(石巻市)に移りました。
集結した艦隊は、「開陽」「回天」「蟠龍」「長鯨」「神速」「大江」「鳳凰」で12日に蝦夷地へ向けて出港した。彰義隊は「長鯨」に乗艦。(「回天」は気仙沼に碇泊中の「千秋丸」の捕獲に向かう)
10月9日に榎本は「趣意書(嘆願書)」を官軍の奥羽鎮将四条隆謌に提出したが何の返答もなかった。 *趣意書の内容は「蝦夷地徳川領案」

12日全艦は北へ向かった。目的地は箱館北方にある内浦湾の鷲ノ木沖である。19日「回天」20日「開陽」「鳳凰」「大江」が到着する。追って他の艦も到着。

蝦夷地はすでに冬で銀世界が広がっていた。

海軍と陸軍が合流して蝦夷地へ向かい上陸榎本はまたも新政府が箱館府として使用していた五稜郭へ嘆願書を持って向かわせた。
*嘆願書は「旧幕臣による蝦夷地の開拓と警備の許可を求めるもの」だった。
新政府が認めるわけもなく当然交戦覚悟だった。銃撃戦が勃発、旧幕軍は五稜郭に進軍をして接収した。
「回天」「蟠龍」も箱館に入港して市中を掌握した。

10月27日彰義隊は松前攻略軍の先鋒として出陣、翌28日には土方歳三を総督とし松前効力軍も出陣、福島へ到着。
10月29日に木古内村、30日に知内村と進出。11月1日には「蟠龍」が松前に入港。松前城に艦砲射撃をする。
11月5日に松前城攻略戦を開始、松前城陥落に成功。

11月11日攻略軍は江差の松前藩兵を追討のため出発するが、彰義隊は分裂騒動をしていた。それは渋沢成一郎の松前城攻撃時の行動が原因だったらしい。総督の土方歳三は事態の収拾を図る。
攻略軍は15日、江差方面館村“館城”を攻撃して落とす。

しかし11月15日に江差沖に碇泊していた「開陽」を暴風雨がおそい、浅瀬に流され暗礁に乗り上げてしまい、数日後に沈没した。また開陽を救出するために22日「回天」と「神速」が沖合に来るが風浪激しく、「回天」は箱館に寄港する。「神速」は蒸気機関が故障して沈没してしまう。

美加保丸イメージイラスト
艦隊イメージイラスト

旧幕藩は2艦を失った。旗艦で最新鋭艦である「開陽」を失ったのは非常に痛かった。
榎本は開陽を失い歯かみして天を仰いだ。そして戦って失ったのでなく自然の猛威で開陽を失ったことに涙があふれてきたという。
11月20日旧幕軍は蝦夷地平定する。彰義隊も11月26日に松前に帰陣している。彰義隊も12月1日松前を経って14日に五稜郭に入っている。
しかし新政府軍の反撃を考えると、榎本は喜ぶわけにはいかなかった。

12月15日箱館では、旧幕府軍が各国領事や土地の有力者を招いて、蝦夷地平定の祝賀会を開いていた。箱館港では軍艦などから空砲百一発が連射されたという。
彼らの目的は「徳川家の血脈による蝦夷地の統括」にあった。それまでの暫定措置として閣僚選挙をおこなって幹部をえらび、政権を樹立した。

彰義隊の最後の戦い

1869(明治2)年3月22日に彰義隊は「回天」に乗り込み、新政府軍旗艦「甲鉄」艦奪取のために宮古湾へ出撃する。のち回天は箱館に寄港。

蝦夷地の雪解けを待っていた新政府軍の軍艦5隻・運搬船など計8隻が宮古湾鍬ケ崎港に到着する。
艦隊は主艦「甲鉄」、「春日」「戊辰」「飛龍」「豊安」「陽春」「丁卯」「晨風」。
3月22日旧幕艦隊「回天」「蟠龍」「高雄」の三隻は箱館を出港して、24日宮古湾で旧幕府軍による「甲鉄」の奪取作戦(アボルダージュ)も行われたが失敗する。

4月9日新政府軍は乙部(江差北方8キロ)に上陸開始、一度は木古内・二股などで旧幕軍が勝利する、しかし17日清部(松前町)へ進むと新政府軍艦「春日」の艦砲射撃を受け陸兵も攻撃開始したため、旧幕軍は総崩れとなって松前に敗走した。

4月20日彰義隊は「木古内の戦い」「矢不来の戦い」と続けて敗れて、旧幕軍とともに五稜郭へ敗走。5月11日新政府軍の箱館総攻撃が行われ敗れる。
5月13日夜、五稜郭を脱走する諸隊士が相次いだ。
旧幕軍の拠点は千代ヶ岡陣屋と五稜郭のみになった。

5月16日午前、新政府軍は軍使いを派遣して千代ヶ岡陣屋の陥落を伝えて、五稜郭への総攻撃を告げた。
5月17日午前6時すぎ榎本武揚は五稜郭を出て新政府軍代表と会談、降意を伝える。この時榎本が会ったのが黒田清隆で初対面だった。しかしお互いに旧知のような感情があったという。
慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦いに始まった戊辰戦争は1年半の時を経てここで終わった。

【箱館戦争】
明治元年(1868)10月から翌年5月にかけて、王政復古と江戸城の明け渡しに不平をいだく、榎本武揚を主将とする江戸幕府の脱走軍が、箱館五稜郭に拠って臨時政府を作り、官軍に抵抗した戦争。官軍の黒田清隆らに攻められて開城。

【土方歳三】(1835-1869)
幕末の剣客。武蔵の人、1863(文久三)年新撰組に入り、副長として京都市中の護衛に当たる。鳥羽・伏見の戦いに敗れたあと、東下して官軍に抗し、後に榎本武揚の軍に投じ、箱館五稜郭で戦死。

最後に

幕府は倒されたのか、それとも政権を譲ったのか

疑問が出てきました。歴史では幕府は薩長同盟などに倒されたというような記述が多いのですが、果たしてそうなのでしょうか?最近の史実調査ではそうではなかったといわれ始めています。

江戸時代は数百年にわたって争いらしい争いもない平穏な時代でした。世界でもまれな状況の中、近代国家の土台はすでに出来上がっていました。だからこそ明治時代になってから西欧の文化を取り入れることも出来たし民主主義への移行もスムーズにいったのだという。

江戸時代幕末の武士や官僚にはエリートも沢山いた

「鎖国家」「攘夷論の張本」だとして幕府の保守的な姿勢がある一方、幕府の中にも開国派、攘夷派その中間といろいろな意見がありました。この中にあった幕府の首脳は「幕府存立のために思い切った改革」を断行しました。それは幕府支配の根幹に抵触するほどの改革でした。

幕府はペリー来航による外交問題が発生したことで2つの課題に迫られていました。
1、外交方針決定に際しての合意形成
2、挙国一致の国防体制の構築

「幕府による朝廷と大名統制」の崩壊

幕府は全国の大名に対して情報公開をして忌憚のない意見を求めました。これは過去に前例のないことでした。
朝廷には前例の基づいて報告したうえで翌年には「日米和親条約」を締結しています。しかし当時は自由貿易を定めた修好通商条約は「鎖国」の国是を崩壊させて侵略的な欧米諸国に従属することで「国体」(天皇を中心とした国家体制)を危うくすると考えられていました。
そのために孝明天皇は許可を与えず、公家集団や武家階級の一部が公然と反対した。
商人同士の自由貿易が展開されると外国人商人が滞在して、恒常的な国交の関係に入り、諸大名の諮問も必要になり朝廷の意見も必要になります。いままでに経験していない領域でした。また日本は海岸線が大きくて幕府単独での国防は無理であり、つまり外敵を意識しての「挙国一致」の態勢つくりが求められていました。大きな課題をかかえることになりました。
1862年(文久2年)長州藩と薩摩藩が国政を転換すべく独自に朝廷と接触を試みることになりました。
それまでの「幕府による朝廷と大名統制」の崩壊が始まったのです。
こののち島津久光が松平春嶽を幕府の老中の上に命じたられたことで、幕府がなんでも決める「幕府のための幕府の政治」から天下の人心にしたがうという政治に変わっていきました。

天下のために必要なことは、幕府にとって不都合であってもやるべきだという『自己否定の論理』につながっていったと言われています。

1867年大政奉還を遡る1年前くらいから、徳川慶喜は政権を放棄する事を計画していたのではないかと言われています。
薩長同盟は朝廷を改革して天皇を中心とした「公議」(公家や大名、藩士たちの意見)に基づいて政治を行う政府を起こすことが目的でした。
慶喜は征夷大将軍の辞職を願い出ます。それは徳川家が一大名になることでした。薩長同盟の幕府討伐はそれを後押ししたのではないかと言われています。
政治社会の関心は朝廷を中心にいかなる政府を作るか、また誰が主導権をとるかという点に移行していました。

幕府の幕引きは、日本の主権を守るため

倒幕されたというよりも徳川幕府は王政復古して皇族中心の政権交代を模索していた。ペリー来航以来、西欧の国が訪れ危機感が増す中、徳川幕府1強体制からいきなり国家を統一し防衛できる体制へ移行するのは難しかった。しかし外国の勢力は目の前にいる。難局を乗り切ることが無理と考えたのではないか。
厳しい判断が求められる中、まず「日本の主権をどう守るか」を考えた。その結論として「幕府の幕引きがあった」という風にとらえた方がいいのではないかと思いました。

徳川慶喜は家康以来の人物といわれていました。彼の真意がどこにあったのか、“徳川家に忠誠を誓う旧幕臣たち”には理解できなかったとあります。しかし慶喜は的確な判断ができていた。

*ある歴史術家の説では、江戸時代の日本人には、何かを実現しようとするときに、欧米のように意見の違う相手を倒して「自分の権力を奪い取る」という争いは無くなっていたという。
人が亡くなるのは戦いでは無くて主に自然災害が多かった。

何事も話し合って決めることが当たり前であり、幕府にはすでに近代化への土台があった。幕府のエリートたちが一番重視していたのは「国が続いていくことだった」のではないかという。

「転向の発想」が生まれた時代

この戦争が終わった後、敗者復活した人がいました。榎本武揚(1836-1908)は一度は朝賊の汚名を受けながら、のちに新政府の下で文官として政治の世界で活躍しました。
*明治6年榎本は2年半獄中にいて許され出獄した後、黒田清隆(1840-1900)の希望で新しく出来た“北海道開拓のための官庁の開拓使“として出仕。当時新政権はカラフト問題が急務とし、大国ロシアと対等にやれる人材を求めていた。黒田が榎本を強く推薦。明治7年閣議は榎本を“露国特命全権公使”に任命した。

「榎本武揚」の中で、筆者は榎本が「徳川存続のための官軍への抵抗」から「明治政府への仕官」へ転身したという「転向の思想」は複雑で理解しにくいと言っています。

幕末のころ武士は力を失っていました。その世情をみて地方出身の日本の未来を憂うエリートたちが、志を持ち命をかけてこの彰義隊・旧幕臣の謀反に加わっていました。 つまり地方の若者が武士にかわり表舞台に登場し政治にかかわりました。また一方では倒幕に加わるものもいました。
「政治家」も「志ある若者」も世の中の動乱・転換期のなか、自分の処し方について迷っていたのではないでしょうか。

最近始まったNHK大河ドラマの主人公「渋沢栄一(1840-1931)」も倒幕の意志を持っていたのに徳川慶喜に仕えることになり、それが縁で彼の運命を切り開き数々の偉業を達成していきます。
それまで日本人は自分の意志で世の中を変えるなど無理でしたので「転向の思想」は許されることはなかった。
しかし幕末から明治における動乱のなか、志を高く持って変化に柔軟に対応する人が現れた。そんな人物が今までの価値観が変わる中、日本の将来を案じて「自分の意志」で動き始めた。自分を信じて生き抜いた。
そんな「思想の転換」が日本を造っていったのだと思いました。

*個人的な仮説も入っています。長いので記事がまとまっているのか自分でも半信半疑です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
*「上野彰義隊と箱館戦争史」菊池明著 新人物往来社刊、「はじめての明治史」山口輝臣著 ちくまプリマ―新書刊、「榎本武揚」赤城駿介著 成美堂出版刊 を参考にしました。