彰義隊艦隊(美加保丸含む)は品川から出港、今回は銚子での「美加保丸(三嘉保丸)座礁」の記事です。
江戸時代末に起きたこの座礁事件は、銚子陣屋・銚子の人々にとって驚きでした。
*前回の美加保丸(三嘉保丸 )顛末1の続きですので、下記の記事『幕末から明治-彰義隊結成-戊辰戦争勃発-銚子市黒生「 美加保丸顛末」前』を読んでからの方が、この話の理解が簡単になります。
銚子市黒生にある「遭難の碑」をご存じですか
銚子の犬吠埼灯台からウォッセ(銚子展望台)に向かっていくと、右側に生きの良い魚が食べられる「一山いけす」があります。
そのお店の入り口駐車場手前の右にその碑はあります。
『美加保丸(三嘉保丸)遭難の碑』です。
一山いけすで食事をしたことがあってもその碑の意味について知っている人は少ないのではないでしょうか。
幕末の1868年8月(慶応4年) 銚子市の黒生海岸で座礁した『 美加保丸(三嘉保丸 )遭難の顛末』の事件内容を調べて書きました。
【注意】本により三嘉保丸・美加保丸・美嘉保丸と漢字表記が変わります。この記事では主に「美加保丸」としています。
* 参考にした本の表記を()にて表しました。
【 美加保丸(三嘉保丸 )】
木造帆船パーク型。長さ約52m、幅約10m、トン数800t の当時では国内最大級の輸送船。
1865年幕府がプロシア(のちのドイツ)の帆船「ブランデンブルク」を購入して命名した。
事の発端は彰義隊、座礁船で銚子は大騒ぎ
江戸時代末に起きたこの座礁事件は、銚子陣屋・銚子の人々にとって驚きでした。
大型船の座礁と、その中に沢山の乗員がいたのですから当然でした。
その時は乗員の身柄もわからなかった。
のちにわかりますが「厄介で物騒な人達」が乗っていたのです。
【陣屋】
地頭などの役所、江戸時代城郭のない小藩の大名の居所。
当時銚子陣屋は高崎藩が管轄していました。
事の発端は1868年(慶応4年、9月から明治に改元)8月19日、榎本武揚の率いる幕艦『開陽丸』『回天丸』『幡竜丸』『千代田形』『神足丸』『長鯨丸』『咸臨丸』『美加保丸(三嘉保丸)』の8隻です。
この8隻が江戸の品川沖を出帆して箱館(北海道函館市)に向かいました。
【榎本武揚(えのもとたけあき)】
幕末・明治の政治家。子爵。
通称釜次郎(かまじろう)、オランダに留学、帰国して海軍総裁、維新の内乱では箱館五稜郭に拠って官軍に抗したが間もなく降伏。のち駐了公使としてロシアと樺太・千島交換条約を結ぶ。諸大臣を歴任。
榎本艦隊の美加保丸(三嘉保丸)出港~銚子沖へ
1868年8月19日に江戸を出帆した榎本艦隊は、艦隊を出してすぐの「咸臨丸の座礁」を受けて1日の日程をそれに費やしていました(1日を失い予定が狂っていた)
【咸臨丸(かんりんまる)】
1857年(安政4)江戸幕府がオランダに建造させた軍艦。蒸気内車船。
全長163フィート(約49m)全幅24フィート(約7m)大砲12門。
1860年遣米使節の随行艦として『日本人操艦による最初の太平洋横断に成功』
*出典:広辞苑第三版
そして8月21日に大風(暴風雨)が襲いかかり、艦隊がバラバラになってしまう。
この風面にあって開陽に曳航されていた『美加保丸(三嘉保丸 )』はケーブル2本が切れてしまい太平洋を漂流してしまいます。
しかも檣(しょう=船の柱)2本も折れてしまったので帆船としての航行も出来なくなってしまいました。
*大風が24~25日ごろに去ったのちも銚子沖を漂流していたのだが、26日に下総国黒生浦(銚子市)沖の暗礁に乗り上げてしまう。場所は黒生浜から150~300mだったと言われている。
銚子の人はとてもビックリしたらしい。
この船が美加保丸(三嘉保丸 )であることも知りませんし、又乗組員の身柄なども知らないわけです。
しかし地元民は難破船を発見して乗員を助けることに乗員救助に力を尽くすのです。
遭難船乗組員の救出
「郷土」創刊号に加瀬喜衛氏が「美加保丸遭難顛末(1)」の中に書いているのは、座礁した後の美加保丸乗組員の様子です。
船員は最初排水作業に取り掛かり、水を汲んで排水を試みたが困難を極めた。
船体が破折しはじめ、船員はみな上甲板へと登り水を避けていた。
船員は夜も空けてきて対岸に人家らしきものもあり、沿岸の村民に助けを求めることにした。
勇敢な者が海面に飛び込んでは海中にいなくなった。
そのうち石塚統太郎という青年士官は荒れ狂う海に飛び込み、何度か沈みつつも波に負けず対岸に泳ぎ着いた。銚子黒生浜に上陸したのだ。
勇気を得た乗組員は数人が続き村民に話をして、指揮して漁船を出すことにした。
これらの漁船を網で繋いで、浜と美加保丸(三嘉保丸)を結んだという。
美加保丸(三嘉保丸)乗員の救出後、その顛末
当時銚子は高崎藩大河内家に支配されていたのだが、高崎藩から東京の鎮将府弁事方に届けが出ている。
乗っていた旧幕臣陸兵は614人で、海軍士官の山田清五郎は、銚子を守る高崎藩の陣屋に赴き、自分たちに対して武力行使しないことを求めた。陣屋の兵もわずかで陣屋側も諒承して彼らの動きを見守った。
*「銚子市史」には鎮将府日誌を引用して「銚子陣屋では大勢の厄介物騒な連中を前にして、僅かの役人では手の下しようもなく、近接の領主に援兵を頼むやら、脱走兵の懐柔に務めるやら、その心労は容易ではなかった。
とかくする内に、夜陰に乗じて逃亡するものも相次ぎ、たまりかねて窮状を鎮将府に訴えている」と記されています。
美加保丸乗員の山田ら幹部は協議して、幕臣陸兵は解放し、それぞれ自分の意志で動くことを認めた。
榎本艦隊に合流しようとして箱館(現在の北海道函館)へ徒歩で向かうもの、土浦藩に降伏するもの、江戸へ引き返すもの、様々だった。
幕兵たち350名ほどは、高瀬舟7槽に分乗して、9月1日夕刻に利根川を上流に走ったという。道中高崎藩兵の銃撃もあった。
潮来村牛堀から霞ヶ浦に入り、9月4日土浦へ入り、5日には全員が土浦藩領へ侵入するも、土浦藩が追補し50人を降伏させる。
下妻領へ逃亡し筑波山麓・北条村へ進み、岩井から野田村へと向かった一隊の6~7名は、江戸川で関宿藩兵の銃撃にあい、対岸の埼玉県側に逃げた。残り50名は、流山から行徳、永代橋際でつかまった。
又ほかの150名は江戸川河口から東京湾に出て、上総五井村へ上陸、のち姉ヶ崎藩追捕の中、奈良橋村から船で東京湾を横断して12日に大森海岸に上陸するも降伏している。
9月1日の高瀬舟から350名が乗ったもののら9月12日までの逃亡劇は、つかまったり降伏したものが250名で、あと十数名は埼玉県側へ逃亡したという事で終わっている。
*新政府側各藩の連絡網・連携は広域にわたっていて執拗なものでした。
鎮将府弁事方から命じられた各藩の人員と対応(追補)
【鎮将府(ちんしょうふ)】
1868年(明治1)5月、明治新政府は「江戸鎮台」を置いて旧幕府の奉行所を引き継ぎ、親王の管轄として軍政をひかせた。
のち7月鎮台を廃して「鎮将府」として民政に移行した。
10月には鎮将府を廃して行政官に移管している。
*コトバンクの「世界大百科事典内の鎮将府の言及」記事を参考にしました。
鎮将府弁事方への届け出によると「8月26日午前零時頃に飯沼村黒生に美加保丸(三嘉保丸)が漂着した」乗組みの者共は疲れていて弁舌がはっきりしない。
暴風波浪もあらいので裡調べは不可能、風波がおさまったら取り調べをすると伝えている。
鎮将府弁事方は、大総督府に上申、軍監は長州藩士(林半七)が命じられ、佐倉藩、志筑藩、斥候隊の編成で銚子へ向かいました。
佐倉藩は5月に出張し12月に帰還したそうです、メンバー内訳は先筒隊38名、大砲隊42名、他91名。
その後も美加保丸(三嘉保丸 )乗員たちの逃避行の方向によって、土浦藩・古河・麻生・下妻・下館・牛久・高岡・関宿・久留里・鶴牧・飯野藩なども出兵している。
乗組員がいかに常陸、下総、上総と広範囲に分かれて逃げたのかが分かります。
*この時 美加保丸(三嘉保丸)に乗船していた遊撃隊の伊庭八郎は逃避行が成功し、1868年11月28日に外国船で箱館に到着し旧幕艦隊に合流。12月3日に松前に向かうと、隊士と合流して遊撃隊の隊長に就任したという。
【美加保丸遭難の碑】
美加保丸(三嘉保丸)遭難の碑は、一山いけす(磯料理店)の駐車場手前の海側に、1882年(明治15)9月に地元の有志などによって建てられました。難破で亡くなった13人の遺体はここに葬られました。
銚子市史によると銚子の人々は、岩礁に乗り上げた難破船を発見しましたが、その船が美加保丸(三嘉保丸)とその乗務員(脱走者)だと知る由もありませんでした。
*後日、銚子陣屋を管轄している高崎藩の措置について、新政府から対応の不行き届きを指摘した譴責(お叱り)の沙汰書(さたがき)が出された。
先ほどの銚子市史に戻ると「銚子の人々は当初、半死半生の脱走兵たちを手厚くいたわっていてのだ。おそらく代官・武士と相身たがいと思っていたのであろう。
しかしこの者たちが『朝敵賊徒』であるとわかった時は、それを知った時はもういかんとも致しがたく、結果皆逃亡することになった。
それが政府の忌諱に触れてしまったのではないか」と書いている。
【朝敵賊徒】朝廷にそむく賊、国賊。
最後に
旧幕艦隊の貨物船「美加保丸」と乗組員は、彰義隊・旧幕臣陸兵、また自ら加わったものなど様々な人物いたようです。
品川から出た旧幕艦隊が房総沖で大風(暴風雨)にあい、漂流の末に銚子黒生浦に流れつく。さぞかし無念であったでしょう。
旧幕府にゆかりのある旧幕臣陸兵の人々と銚子の海岸で漁を生業にして生きている人たちが重なるわけです。二つの人々の間には朝廷・幕府に対する思いや、知識はかなり差があったでしょう。またその暮らし向きも大きな違いがあったはずです。
銚子の人々は大政奉還の事実やその意味、また外国に対して置かれれいた状況などどれだけ分かっていたのでしょうか。
大風が無ければ出会う事はなかった。遭難と救助という大変な事件であっても、お互いがそれ以上親しくなることもなかったはず。
その時存在していたのは、彰義隊・旧幕臣陸兵らが国をおもい必死に生きようとしたことと、銚子の地元民は必死に遭難した人の命を救おうとしたことでした。
*歴史のほんの一瞬のことだったと思いますが、地位や環境の違う様々な人たちが大きな時代のうねりに負けないで生き抜こうとしている。そんなことを想像しました。
歴史におおきな記憶を残した事件ではありませんが、銚子にはしっかりと『其の時代の人々の思い』が残っています。
事件から14年後たち、戊辰戦争の歴史を振り返ることが出来てきた明治15年のこと碑は作られました。
地元の有志によって建てられた「美加保丸(三嘉保丸)遭難の碑」が『其の当時の人の思い』なのだと思いました。
戊辰戦争の終結から徳川から朝廷を経て、日本が明治新政府のもと統一国家となっていきました。
【明治維新】
慶応3年10月(1867年)徳川慶喜の大政奉還から、明治天皇の王政復古宣言、翌4年(1868年)江戸幕府の倒壊を経て、明治新政府成立に至る一連の統一国家形成への政治改革過程。
形式上は徳川氏から朝廷への政権移行、実質は封建制から国家統一と資本制への移行に連なり、近代日本の基礎を置いた。
出典:広辞苑第三版
*最後まで読んでいただきありがとうございました。
「銚子市史」、「幕末の台風」山形紘著 倫書房刊、「榎本武揚」赤城駿介著 成美堂出版刊 を参考にしました。
*ここまでが『美加保丸遭難の顛末』2です。読んでいただきありがとうございました。
美加保丸乗員逃亡劇があったころ、「謀反を計画した彰義隊」の艦隊は奥羽に向かっていました。
この後の彰義隊の話は 『美加保丸遭難の顛末』後-3で書いていく予定です。