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銚子市黒生海岸

幕末から明治-彰義隊結成-戊辰戦争勃発-銚子黒生「美加保丸顛末」前-1





はじめに




銚子市黒生町にある下記写真の碑をご存じですか。
幕末から明治に銚子市黒生海岸で起きた事件、旧幕艦「美加保丸」(三嘉保丸)の座礁で亡くなった人のために造られた「美加保丸遭難の碑」です。
調べていくとその座礁前後は、時代が大きく動いていた時で、日本の歴史をたどることになりました。詳しく書けるわけでもないのでかなり略して書いたのですが、思いのほか記事が長くなりました。ので3回に分けています。今回はその1回目です。
【注意】文献により三嘉保丸・美嘉保丸・美加保丸と様々ですが、この記事は「美加保丸」を主体に記事を書きます。




銚子市黒生-三嘉保丸-遭難の碑
三嘉保丸-遭難の碑




銚子市黒生海岸位置
銚子市黒生海岸位置




1868年(明治1、戊辰の年) に千葉県銚子で起きた「美加保丸顛末」について調べて、記事を書き進めるにつれて、「美加保丸含む榎本艦隊がなぜ江戸を出発して箱館(現在の北海道函館)を目指したのか」が理解できていないことに気が付きました。
そこで銚子での事件が起きる手前、『美加保丸(三嘉保丸)が出港した理由』を調べることにしました。




事の発端について調べていくと、「美加保丸顛末」は幕末から明治への歴史の中に在り、大きくとらえると「戊辰戦争」の中に位置づけられる事件でした。




【戊辰戦争(ぼしんせんそう)】
1868年(明治1、戊辰の年)に行われた官軍と旧幕府側との戦、奥羽越列藩同盟、会津落城、箱館戦争などを含む。出典:広辞苑第三版




*「鳥羽・伏見の戦い」「大政奉還」「徳川慶喜」など歴史上の事件や人物が大きく関係しています。時代が大きく動いて時代。それだけに重たい。どこまで調べるのか、大きな歴史であり書くのに躊躇しました。
結局自分が知り得た範囲に限定するしかない。専門の書籍数冊を読み「銚子の美加保丸の顛末」が歴史上のどの位置の話なのか、どういう意味を持っていた事件なのか、そしてこの事件の後どうなったのかを。自分の独断と偏見に満ちた切り取り方をしています。その辺はご理解ください。




美加保丸に関係のある歴史に焦点を絞っていくと、当時艦隊の中心にあった「彰義隊」を知りました。
旧幕府側の有志「彰義隊」を中心に話を進めることが「美加保丸(三嘉保丸)座礁事件」を語るうえで分かりやすいと思いました。




追いかけていくと歴史上の人間や戦の概要が見えてきました。目立った事件を中心にして書いていきます。




彰義隊が生まれるまでの歴史




1867年10月、十五代将軍徳川慶喜は大政奉還を行い、徳川家を頭とした雄藩連合によって新政府を支配することを目論んでいた。
しかし討幕派の公卿と薩摩藩は徳川家を新政府から排除。12月には王政復古を宣言して徳川家連合との対決を鮮明にあらわした。




そしてついに1868年(慶応4年)1月「鳥羽・伏見の戦い」旧幕府軍と新政府軍間の武力衝突が起こります。旧幕府軍が劣性になり、旧幕兵は大阪へと敗走した。大阪城の徳川慶喜は会津藩主の松平容保らと海路江戸に帰還する。目的は江戸で恭順の意を表するためだ。
*恭順:心から服従する事。(出典:広辞苑第三版)




【鳥羽・伏見の戦い】
慶応4年1月3日、幕兵及び会津・桑名などの藩兵が、徳川慶喜を奉じ、薩藩討伐を名目に大阪から京都に入ろうとして、薩長その他の藩兵と伏見・鳥羽の両方面で戦った内戦。幕軍の大敗に終り、維新の大局を決した。
(出典:広辞苑第三版)
*「鳥羽・伏見の戦い」は「戊辰戦争の始まりの戦」と言われています。




しかし新政府は「朝廷を欺き奉り候段」として追討令を出す。彼らに再起の隙を与えなかった。旧幕府と親幕派の大名の兵力に対して、追討令を受けて東征軍をすすめた。




鳥羽・伏見の戦いに敗れたとはいえ、旧幕府と新幕派のほとんどは
兵力が残っていたので新政府の戦略は当然だった。しかし大政奉還を行い新政府への妥協をしていた旧幕勢力にとって追討令はあまりに“理不尽なもの”だった。




また徳川家に生まれた慶喜は弘化四年(1847)に一橋家を相続して朝廷のために力を尽くしていたので、一橋家の有志にとってこれは討幕派による冤罪と思われた。【冤罪(えんざい)】無実の罪、ぬれぎぬ。出典:広辞苑第三版




その冤罪をはらすために彼らは立ち上がったのでした。




1868年(慶応4年)2月11日、「橋府随従之有志」は、旧幕撒兵隊や、騎兵・砲兵・歩兵の各隊あてに檄文が届けられた。
『橋府』とは一橋家の事で、その家臣の有志が、「討幕派による冤罪」と思われる一件について無念を晴らすべく、12日「雑司ヶ谷茗荷屋」にて緊急に相談をしたいとの文書(檄文)を出したのです。
翌日の集会に出席したのは17人。これが「尊王恭順有志会」でした。

【檄文(げきぶん)】
敵の罪悪などを挙げ、自分の信義を述べて、衆人に告げる文書。
出典:広辞苑第三版




2月17日未明、慶喜は上野寛永寺の大慈に移り120余りの警護を受けて謹慎生活に入る。
21日一橋家の有志を中心として四谷円応寺に格式ある武士やのちの彰義隊をリードする天野八郎や渋沢成一郎も加わった。

そこでの議論は箱根で新政府軍を迎え撃つなど好戦的な意見もあったが、渋沢は「主君の御謹慎中に家臣が戦争するというのはまちがっている。まずは平和の哀訴懇願してみて、聞かれないときは、みな心腹を一つにして武士の意地を貫く(死をもって目的を果たす)のはどうだ」と発言して、みな同意したという。
これが彰義隊のポリシーになった。「同盟表訴申合書」に署名血判が行われその人数は112人をかぞえた。




翌日2月22日浅草にある京都の東本願寺江戸別院を訪れた。そこを集結所とした。3日間に300人ほどが集まった。
ここで隊名が「彰義隊」と定められた。




【徳川慶喜(とくがわよしのぶ)】 (1837~1913)
徳川第15台将軍。徳川斉昭の第七子。始め一橋家を嗣ぎ、将軍家茂を補佐、1866年(慶応2年)将軍職を継いだが幕末の内憂外患に直面して、翌年遂に大政を奉還、1868年鳥羽・伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡して水戸に退き駿府に隠棲。公爵。*出典:広辞苑第三版







この後の彰義隊の動向~上野戦争~仙台へ




1868年3月:彰義隊、上野山内に移転。
彰義隊は水戸に退去した慶喜に変わって寛永寺貫主・輪王寺宮(りんのうじのみや)を奉じていた。彰義隊は宮を奉じ警護することに意義を見出していた。
そして宮の側近・義観に支持する。義観は新政府軍の皇族にたいしての態度に強く怒っていた。
4月19日:輪王寺宮、新政府による彰義隊の上野撤退を拒絶する。
同4月下旬:渋沢は彰義隊の天野らと対立し、上野を去り「振武軍」を結成、田無へ移動。のち西光寺を本陣とする。
彰義隊頭取は、天野八郎になる。
4月29日:勝海舟は彰義隊に武装解除を説いたという。
5月上旬:奥羽(東北)では会津藩兵が藩の処分を命じた新政府と争うなどしていた。
5月3日:奥羽25藩が白石城に集会して「奥羽列藩同盟」を結成する。
【奥羽とは】陸奥と出羽。福島・宮城・岩手・青森・秋田・山形の6県の総称。現在は一般に東北地方とよぶ。




上野では彰義隊と各官軍との争いもあり上野山内は興奮した隊士たちの声も高くなり一触即発の状況。
5月13日:新政府軍は、彰義隊討伐を布告する。
5月15日:「上野戦争」勃発。彰義隊は戦いに負けて敗走する。 江戸は大雨が降っていたという。




【上野戦争】
1868年(慶応4年5月)、将軍慶喜の恭順をよろこばず新政府に反抗する幕臣らが編成した彰義隊を、官軍が上野の寛永寺に討伐した戦*出典:広辞苑第三版




5月23日:「飯能戦争」が勃発、振武軍敗走する。
5月25日:輪王寺宮、榎本武揚の旧幕艦により平潟へ逃れる。
7月6日:彰義隊残党は、品川沖の幕艦隊の旗艦「開陽」で榎本武揚に面会。下旬までに同志も「昇平」に乗船する。
7月22日:昇平丸の彰義隊は、平沢と再会して「新彰義隊」を結成。




そして、8月19日上野戦争で敗走した彰義隊は、榎本武陽の率いる旧幕府海軍とともに江戸を脱出して、海路を仙台に向かうのです。
奥羽越列藩同盟軍に加わり新政府軍と戦うために再挙を期したのです。

そして榎本は徳川家の将来を“蝦夷地”に求める構想を抱き始めました。(彼は若いとき父に勧められカラフトの巡検で蝦夷地には来たことがあった。)




*その1か月ほど前、徳川慶喜は移転していた。
7月19日慶喜は、徳川家達の請願により、徳川家の移封先である駿河府中への移転を許された。謹慎先の水戸を発ち、銚子より旧幕艦「蟠龍(ばんりょう)」に乗船し、23日に清水港に入ると宝台院(静岡市葵区常盤町)に謹慎する。そして家達も江戸を出立して駿府城に到着する。




*「美加保丸(三嘉保丸)」含む旧幕艦隊が品川にそろいます。徳川艦隊は優秀でした。新政府は対抗できる艦隊を持っていませんでした。
勝海舟の説得にもかかわらず、榎本武揚の旧幕艦隊は北航を決意します。しかし天は彼らの味方をしませんでした。
銚子「美加保丸(三嘉保丸)の顛末」につながります。
*「上野彰義隊と箱館戦争史」菊池明著 新人物往来社刊、「とっておき銚子散歩」稲葉豊和著 アクセス出版刊を参考にしました。