榎本武揚-彰義隊-奥羽から蝦夷地-戊辰戦争終わる-銚子黒生「美加保丸顛末」後-3

最後に

幕府は倒されたのか、それとも政権を譲ったのか

疑問が出てきました。歴史では幕府は薩長同盟などに倒されたというような記述が多いのですが、果たしてそうなのでしょうか?最近の史実調査ではそうではなかったといわれ始めています。

江戸時代は数百年にわたって争いらしい争いもない平穏な時代でした。世界でもまれな状況の中、近代国家の土台はすでに出来上がっていました。だからこそ明治時代になってから西欧の文化を取り入れることも出来たし民主主義への移行もスムーズにいったのだという。

江戸時代幕末の武士や官僚にはエリートも沢山いた

「鎖国家」「攘夷論の張本」だとして幕府の保守的な姿勢がある一方、幕府の中にも開国派、攘夷派その中間といろいろな意見がありました。この中にあった幕府の首脳は「幕府存立のために思い切った改革」を断行しました。それは幕府支配の根幹に抵触するほどの改革でした。

幕府はペリー来航による外交問題が発生したことで2つの課題に迫られていました。
1、外交方針決定に際しての合意形成
2、挙国一致の国防体制の構築

「幕府による朝廷と大名統制」の崩壊

幕府は全国の大名に対して情報公開をして忌憚のない意見を求めました。これは過去に前例のないことでした。

朝廷には前例の基づいて報告したうえで翌年には「日米和親条約」を締結しています。しかし当時は自由貿易を定めた修好通商条約は「鎖国」の国是を崩壊させて侵略的な欧米諸国に従属することで「国体」(天皇を中心とした国家体制)を危うくすると考えられていました。
そのために孝明天皇は許可を与えず、公家集団や武家階級の一部が公然と反対した。
商人同士の自由貿易が展開されると外国人商人が滞在して、恒常的な国交の関係に入り、諸大名の諮問も必要になり朝廷の意見も必要になります。いままでに経験していない領域でした。また日本は海岸線が大きくて幕府単独での国防は無理であり、つまり外敵を意識しての「挙国一致」の態勢つくりが求められていました。大きな課題をかかえることになりました。

1862年(文久2年)長州藩と薩摩藩が国政を転換すべく独自に朝廷と接触を試みることになりました。
それまでの「幕府による朝廷と大名統制」の崩壊が始まったのです。
こののち島津久光が松平春嶽を幕府の老中の上に命じたられたことで、幕府がなんでも決める「幕府のための幕府の政治」から天下の人心にしたがうという政治に変わっていきました。

天下のために必要なことは、幕府にとって不都合であってもやるべきだという『自己否定の論理』につながっていったと言われています。

1867年大政奉還を遡る1年前くらいから、徳川慶喜は政権を放棄する事を計画していたのではないかと言われています。
薩長同盟は朝廷を改革して天皇を中心とした「公議」(公家や大名、藩士たちの意見)に基づいて政治を行う政府を起こすことが目的でした。
慶喜は征夷大将軍の辞職を願い出ます。それは徳川家が一大名になることでした。薩長同盟の幕府討伐はそれを後押ししたのではないかと言われています。
政治社会の関心は朝廷を中心にいかなる政府を作るか、また誰が主導権をとるかという点に移行していました。

幕府の幕引きは、日本の主権を守るため

倒幕されたというよりも徳川幕府は王政復古して皇族中心の政権交代を模索していた。ペリー来航以来、西欧の国が訪れ危機感が増す中、徳川幕府1強体制からいきなり国家を統一し防衛できる体制へ移行するのは難しかった。しかし外国の勢力は目の前にいる。難局を乗り切ることが無理と考えたのではないか。
厳しい判断が求められる中、まず「日本の主権をどう守るか」を考えた。その結論として「幕府の幕引きがあった」という風にとらえた方がいいのではないかと思いました。

徳川慶喜は家康以来の人物といわれていました。彼の真意がどこにあったのか、“徳川家に忠誠を誓う旧幕臣たち”には理解できなかったとあります。しかし慶喜は的確な判断ができていた。

*ある歴史術家の説では、江戸時代の日本人には、何かを実現しようとするときに、欧米のように意見の違う相手を倒して「自分の権力を奪い取る」という争いは無くなっていたという。
人が亡くなるのは戦いでは無くて主に自然災害が多かった。

何事も話し合って決めることが当たり前であり、幕府にはすでに近代化への土台があった。
幕府のエリートたちが一番重視していたのは「国が続いていくことだった」のではないかという。

「転向の発想」が生まれた時代

この戦争が終わった後、敗者復活した人がいました。
榎本武揚(1836-1908)は一度は朝賊の汚名を受けながら、のちに新政府の下で文官として政治の世界で活躍しました。
*明治6年榎本は2年半獄中にいて許され出獄した後、黒田清隆(1840-1900)の希望で新しく出来た“北海道開拓のための官庁の開拓使“として出仕。当時新政権はカラフト問題が急務とし、大国ロシアと対等にやれる人材を求めていた。黒田が榎本を強く推薦。明治7年閣議は榎本を“露国特命全権公使”に任命した。

「榎本武揚」の中で、筆者は榎本が「徳川存続のための官軍への抵抗」から「明治政府への仕官」へ転身したという「転向の思想」は複雑で理解しにくいと言っています。

幕末のころ武士は力を失っていました。その世情をみて地方出身の日本の未来を憂うエリートたちが、志を持ち命をかけてこの彰義隊・旧幕臣の謀反に加わっていました。
つまり地方の若者が武士にかわり表舞台に登場し政治にかかわりました。また一方では倒幕に加わるものもいました。

「政治家」も「志ある若者」も世の中の動乱・転換期のなか、自分の処し方について迷っていたのではないでしょうか。

最近始まったNHK大河ドラマの主人公「渋沢栄一(1840-1931)」も倒幕の意志を持っていたのに徳川慶喜に仕えることになり、それが縁で彼の運命を切り開き数々の偉業を達成していきます。

それまで日本人は自分の意志で世の中を変えるなど無理でしたので「転向の思想」は許されることはなかった。
しかし幕末から明治における動乱のなか、志を高く持って変化に柔軟に対応する人が現れた。そんな人物が今までの価値観が変わる中、日本の将来を案じて「自分の意志」で動き始めた。自分を信じて生き抜いた。
そんな「思想の転換」が日本を造っていったのだと思いました。

*個人的な仮説も入っています。長いので記事がまとまっているのか自分でも半信半疑です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
*「上野彰義隊と箱館戦争史」菊池明著 新人物往来社刊、「はじめての明治史」山口輝臣著 ちくまプリマ―新書刊、「榎本武揚」赤城駿介著 成美堂出版刊 を参考にしました。