圓福寺の第20回寺宝展で蔦屋重三郎が作った本を身近で見ました。
細い線は髪の毛ほどの細さで、木版はとても繊細な仕事であったことに驚きました。
今回は展示されていた2冊の本「吉原細見たつたひめ」と「傾城觿(けいせいけい)」が、彼の人生・仕事においてどの時期のものなのかを調べました。
その後の蔦重の歩みについても簡単ですが書いています。
【蔦屋重三郎(1750-1797)】
寛延3年(1750)に生まれ、吉原で育ち、印刷に興味を持ち、浮世絵、吉原の細見など携わり、書物を通じて江戸の文化をリードした人物。
寛政9年(1997)48歳の時に脚気(江戸やまい)で亡くなった。
*センスやアイディア、プロデュースに抜きん出ていた。江戸の出版文化を色どった人物で後の本・出版に大きな影響を与えた。
圓福寺に展示されていた蔦重の2冊に注目。
No.27「吉原細見たつたひめ」とNo.13「傾城觿(けいせいけい)」の2冊の本は蔦重の出版活動においてどの時期に位置するのか、彼の人生の年表を追いながら調べました。
1冊目は1781(天明元年)31歳の時に出版されたNo.27、「吉原細見たつたひめ」朋誠堂喜三二序

・蔦屋重三郎は、1750年(寛延3)江戸吉原の生まれで、8歳の時に蔦屋の養子となりました。
・蔦重は1772年(安永元)に22歳で吉原に貸本屋・耕書堂を聞きます。
・1773年(安永2)、23歳の時に、鱗形屋発行の「吉原細見」の小売を始めます。
(このころ「吉原細見」は鱗形屋が独占していました)
【細見とは】毎年情報が更新・刊行される定期刊行物(正月と秋頃の年2回発行された。)で今でいえば雑誌のようなもの。
広辞苑第三版、他を参照
吉原細見は江戸遊郭の吉原についてのガイドブック。
開くと地図もあり、お店の位置、女郎の名前などが載っていました。
・1775年(安永4)、25歳の時に、蔦重として初の吉原細見「籬乃花(まがきのはな)」を刊行します。
*蔦重の吉原細見には、平賀源内や十返舎一九などが序文を寄せていた。当時の有名人にコメントを書いてもらい書物の信頼度を高める効果があった。
・28歳ころから酒落本を出し、30歳(1780年)は、黄表紙を手掛ける、「伊達模様見立蓬萊(だてもようみたてほうらい)」を初めて刊行した。
*また往来物の出版も始めています。
【往来物とは】平安末期から明治初年まで主に 初等教育で広く使われた一群の教科書の愛称。往来という語は、もともと“往復書簡の意味”で、 往復書簡文例集を教科書としたところからこのように呼ばれるようになった。
日本文化史ハンドブック 東京堂出版刊より
江戸時代は、庶民の教育機関である寺子屋で盛んに用いられた。又農業、商業、地理、歴史に関する往来物も生まれた。
・1981年31歳の時に「吉原細見たつたひめ」を出版。
※「吉原細見たつたひめ」は、蔦重31歳の頃で洒落本・黄表紙と仕事を拡げはじめたころでしょうか。
2冊目は1788年(天明8)9歳の時に出版されたNo.13「傾城觿(けいせいけい)」山東京伝 撰・画

・蔦重は1783年(天明3)34歳の時に、吉原細見の出版を独占。
江戸の日本橋通油町 (現在の中央区日本橋大伝馬町付近)に蔦屋耕書堂を出店し、地本問屋の仲間入りをしました。
【地本問屋とは】
雑誌サライ 小学館刊より
江戸で出版された赤本や草双紙(絵入り本)を「地本」といっていた。
その土地で出版されて読まれる本は、地本と呼ばれていた。
*新しく『地本問屋』が登場した。それまでは、経書(経典や書物)、医学書や古典を扱う『書物問屋』が主だった。
・1785年(天明5)36歳の時に「江戸生艶気樺焼」山東京伝(作画)を出版した。
※「江戸生艶気樺焼」は「黄表紙」の大傑作といわれている。1万以上売れたという。
「江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)」を簡単に紹介
江戸生艶気樺焼-山東京伝作-黄表紙 【簡単なあらすじ】
主人公の艶二郎(えんじろう)は、ぶおとこ(醜男)であり女性にもてない。
艶二郎は百万長者『仇気屋(あだきや)』のひとり息子。
上向きの低い鼻が特徴で、歳は19から20位。生まれついての移り気があり、異性のことで頭がいっぱい(色恋に夢中)。
女性にモテたい艶二郎は、どうしても色男として世間の評判になりたいので、お金を使って愚行を繰り返す。
登場人物の女性たちの冷たい言い方や行動に対して、勘違いしながらも我が道を行くお話。*うぬぼれの強い男である艶二郎の言動が面白い。笑いもあるし哀愁も感じられたので、艶二郎というキャラクターは人気になりました。
雑誌サライ 小学館刊を参考にしました。
※“失敗談というのがオチ”で、“万事めでたし、で終わる”のが黄表紙のお約束でした。
*黄表紙は安永から文化にかけての30数年間刊行されました。
(その点数は、1800種におよぶという。)
・1787年(天明7)は、寛政の改革(検閲強化、出版統制) の影響もあって、「吉原細見たつたひめ(1781刊)」や「飛花落葉(ひからくよう)」にかかわっていた明城堂喜三二や恋川春町、大田南敏が戯作からは離れた。
※三人は武士作家だったので戯作より撤退を余儀なくされた。かわりに町人の山東京伝らが入ってきた。
【寛政異学の禁】 時代背景としては、田沼政治の開放的な空気のもとで、(儒学の異説や) 黄表紙などの政治風刺の出版の隆盛をおさえる目的があった
日本文化史ハンドブック 東京堂出版刊より
【戯作(げさく)とは】
広辞苑第三版より
江戸中期以降に発達した俗文学(特に小説) 、読本、黄表紙、合卷、酒落本、滑稽本、人情本などの総称。知識人が余技で書いた通俗小説でもあった。
・その翌年1788年(天明8)に萬重39歳の時に「傾城觿(けいせいけい)」が出版されました。*蔦重にとって大変な時期を迎えようとしていました。
・1789年(寛政元)40歳の時に、黄表紙「鸚鵡道し文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち」が発禁処分。
・1790年(寛政2)幕府が出版取締令を発布。
1791年(寛政3)、蔦重が42歳の時には、山東京伝の洒落本が発禁処分。
蔦重は手鎖50日、身代半減の処分をうけました。
1793年(寛政5)45歳の時に浮世絵・喜多川歌麿画の「青楼十二時 続」を出版。(青楼とは遊郭のこと)
1794~1795年46歳の時に、東洲斎写楽の役者絵を出版しました。
しかし‥
1796年(寛政8)47歳の時に蔦重は脚気を患い重病化し、 翌年1797年(寛政9)48歳の時に亡くなりました。
【脚気(かっけ)とは】
広辞苑第三版より
ビタミンB1の欠乏による栄養失調症の一つ。末梢神経を犯して下肢を麻痺させ、または脛(すね)に浮腫ができる。米を主食とする東洋に特有の病気。(*江戸時代は沢山米を食べていた)
草双紙
草双紙(くさぞうし)とは、江戸中期の絵入りの読み物のこと、 今でいう絵本や漫画のようなもの。
赤本、青本、黒本、黄表紙とは?
享保年間(1716~36)に子供向けの絵本である「赤本」が流行し、延享年間(1744~48)になると、「青本」「黒本」が登場した。
・青本とは、赤本の内容を大人向けにした絵入りの大衆小説。
・黒本とは、(1700年代半ばすぎに出た)子供向けの絵本のこと。
そして登場したのが「黄表紙」。
・黄表紙とは、全ページ絵があって物語が進む。キャラクターの面白さと風俗や流行も描かれていた。(今でいう漫画のような本)
※安永4年(1775)に恋川春町(作、画)の 「金々先生栄花夢」が黄表紙最初の作品といわれる。
これは子供向けが主であったのを、大人向けの漫画として出版するという挑戦。出版界の転換点になった。
*蔦重は、この黄表紙に目をつけた。最初に刊行したのは山東京伝の黄表紙で、安永9年(1780)に出版を始め朋誠堂喜三二らと組み、次々とヒットをとばした。
「蔦屋重三郎」は江戸に出版文化を花開かせた最切の人でした。
蔦重をささえた作家の存在があり、才能に優れた人達でした。
蔦重時代の4人のベストセラー作家
・山東京伝(1761~1816):戯作者、絵師、デザイン
江戸深川生まれ、絵師(北尾政演)としても名高い、 黄表紙や酒落本の戯作者として人気。 デザインのセンスもよくて多くの図案を世に出した マルチクリエーター。(代表作)「江戸生艶気樺焼」「黒白水鏡」「御存商売物」など。
・大田南畝(1749~1823) :文人
江戸御徒町生まれ、武士であり、歴史や漢籍の知識が豊富で能力が高い。
文化人としては、狂歌界の中心人物で、言葉をつかうセンスに優れていた。
(代表作)「甲駅新話」「万載狂歌集「菊寿草」など。
・朋誠堂喜三二(1735~1813):文人、狂歌師、戯作者。
江戸生まれ。武家に生まれ幼少期に俳諧や漢字を学び知識が豊かで、江戸屋敷の重役まで出世。 吉原通として酒落本をかいて人気になり、黄表紙の戯作を書きはじめた。(代表作)「当世風俗通」「親敵討腹鞁」など。
・恋川春町(1744~1789): 絵師、狂歌師、戯作者。
江戸生まれ。武士として仕事をしながら、 浮世絵を学び、酒落本の挿絵や戯作者として活躍した。「黄表紙」のはじまりといわれる「金々先生栄花夢」を自画作で出版した。(代表作)「当世風俗通」「高慢斎行脚日記」など。
蔦重が作ったなかで、よく売れたのは「山東京伝の黄表紙と洒落本」。その他に「喜多川歌麿の浮世絵」と「東洲斎写楽の役者絵」があります。
黄表紙などで人気を博したものの出版に規制を受けた。しかし夢をあきらめることはなかった。
その後に始めた『浮世絵』で蔦重はそのプロデュース能力を発揮します。
*歌舞伎俳優の姿を描く「役者絵」が出始めたのは1700年代半ば以降。
18世紀半ばに出た鈴木春信は『錦絵』と呼ばれる多色刷の浮世絵版画を創作し、浮世絵の黄金時代の幕を開いた。春信は清楚な美人画に傑作を残した。(浮世絵の世界では、役者絵とは歌舞伎役者など。 美人画は、遊女や評判の茶屋の娘などを描いたもの。)
日本文化史ハンドブック 東京堂出版刊より
蔦重の浮世絵は、 なぜ人気を得たのか?
・喜多川歌麿の「美人画」 (1753?-1806)
蔦重はそれまでの美人画が全身画で表情がシンプルで画一的だったのを変えた。
蔦重は喜多川歌麿の画力の凄さを知っていたので、女性の目や口の表情や首や指先などのしぐさを描いてもらい、“匂わせ”まで表現することで、魅力的な絵とすることに成功した。
*加えて大事な“彫りや摺り”にも手を抜かなかった。

・東洲斎写楽の「役者絵」 (生没年不詳)
蔦重は、1794(寛政6)5月の歌舞伎興行にあわせ、役者絵を新人であった写楽にまかせ描かせた。
それまでの役者絵は役者の名場面などで全身を描いていたのだが、東洲斎写楽らが“大首絵の手法”を使い、役者絵・相撲絵を描いた作品が大衆に喜ばれた。
写楽は役者の上半身をかいて役者の素顔をかいた。顔の特徴を素直に誇張しており、人々は驚いたという。
*蔦重は写楽の才能を見抜いていた。大胆さがなければ出来ない仕事でした。
・葛飾北斎の「風景画」(1760-1849)
北斎は、天才だった。
世界的によく知られた「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の絵を描いた。
手前の荒波と波間に揺れる小舟と乗客、遠くに富士山を置くという、海面からの視点を使って迫力のあるありえない構図をつくった。
想像力を膨らませて“誰にも真似ができない世界”を絵に表現した。
*大衆の人気を得てこのジャンルの市場を拡大させました。
これが蔦重の大きな仕事だといわれています。
【まとめ】吉原での出会いが蔦屋重三郎の世界をひろげた
吉原は知識人にとっての情報交換や最新の流行を知る場でもあった。蔦重は吉原人脈との会話・文化人との会話から色々なアイディアを得たのではないかという。
時代をさかのぼった1716(享保元年)、徳川吉宗は、寺子屋の奨励(享保の改革のひとつ) をしました。
その結果、蔦重の時代には次第に一般庶民も読み書きができるようになり、出版物の市場に実をつけた。時代も出版を後押ししました。
蔦重は、序文(本の帯の推薦文)や、本の最後に宣伝(新刊本の)を載せるなどアイディアも斬新でした。歌舞伎にもかかわりました。
狂歌ブームを仕掛けるなど江戸文化をひっぱった才人でした。
蔦重が活躍した時代の「美人画」は今のグラビアピンナップ、「役者絵」はブロマイド、「黄表絵」はコミック誌に例えられます。
蔦屋重三郎は江戸時代に出版の世界をひろげた人物でした。
その文化は今も広がり続けています。
※最後までお読みいただきありがとうございました。圓福寺寺宝展「蔦重のあとさき」解説パンフレット。「サライ、創刊35周年記念特大号」2025年2月号 小学館発行、「日本文化史ハンドブック」阿部猛、西垣晴次編、東京堂出版刊を参考にしました。
