銚子には、江戸時代にあった「高崎藩銚子陣屋」の跡が残っています。
現在の“陣屋町公園”です。(住所:銚子市陣屋町6-4)
*銚子電鉄の観音駅から北へ歩いて5~10分程度の場所です。
【高崎藩銚子陣屋】
江戸時代、銚子は高崎藩の管轄にあり、高崎藩銚子陣屋が置かれていました。(高崎藩は上野国群馬郡(群馬県高崎市)の周辺と、飛地として銚子を領していた)「陣屋」は、高崎藩の役人や使用人などが常駐し、銚子領内の年貢の徴収や領内の治安維持、 領民からの訴訟など様々な治をしていました。(今でいうと役所です)
そんな陣屋周辺の町が、渡辺崋山が描いた絵「四州真景図」の中に残っています。崋山は『銚子の磯浜巡り』をして絵を描いています。どんな様子だったのかを想像してみました。
*少々長くなりました、時間がある時に読んでいただけると嬉しいです。
【渡辺崋山(1793-1841)】
幕末の南画家・洋学者。三河・田原藩の家老。
幕末の政治家で文人画家でもあった。
儒学を佐藤一斎に学び、蘭学にも通じた。西洋画法を取り入れて南画風の独自の様式を完成。鋭い筆致で写実的な肖像画に優れた作品を遺す。尚歯会を結成し、攘夷の非を責めた「慎機論」を著わした。蘭学者と海外研究を進めたが、1839年に蛮社の獄に連座、郷国に幽閉。自刃した。
*蛮社の獄とは蘭学者を弾圧したもの。
四州真景図 “新町大手、町奉行やしき” 渡辺崋山画
陣屋町公園看板【四州真景図 “新町大手、町奉行やしき” 渡辺崋山画】より
渡辺崋山(1793~1841)が四州(武蔵・常陸・下総・上総) めぐりの旅に江戸を旅立ったのは文政八年(1825) 六月のことである。武蔵江戸を発って常陸潮来を経て、 下総銚子から上総経由で帰ったから四州である。このとき銚子で崋山が描いたスケッチが重要文化財「四州真景図巻」のなかに残っている。
*下記は渡辺崋山が描いた銚子の町の様子「新町大手奉行屋敷」の絵です。
新町大手奉行屋敷絵-旧陣屋跡-銚子市 郷土の作家、常世田令子氏の著作のひとつに”銚子湊昔絵がるた”がある。
その本の中で”新町大手、町奉行やしき”図について 「崋山の描いた銚子風景」として次のように紹介している。「・・・三十三歳の渡辺崋山がこの地に遊んだことはよく知られている。・・・後年の悲劇など、まだ予想もつかぬ若々しい時代の、伸びやかな来銚であった。・・・銚子にかかわる図・・・優に十数葉を数える。磯めぐり絵巻は他にも多いが、何といっても”日本印象派”と讃えられた抜きん出た画業で、この銚子の風景が描きとどめられた。おおむねは水景なのであるが、中に“一葉だけ市街図”がある。“新町大手、町奉行やしき”というのがそれで、今の陣屋町、南町あたりの写生図である。
絵の中央は陣屋の門である。右へ茅葺き屋根がこんもりと三棟、脇門の上に掲げられた高札。その右は瓦を葺いた酒屋の土蔵であって酒樽が積み上げられ、前の路上では半裸の男が縄を掛けている。通りを行く菅笠姿の男二人は主従らしく、一人は竹竿を杖に、従者は天秤棒で荷をかついでいる。左側は二階建ての店舗であるが、看板に”人参”とあって薬種商である。陳列窓の内には草根木皮のたぐいが吊るされてある。道路も店舗も人々のさまも、 すっかり変貌した銚子の町であるが、目をこらせば今も、こうした親しい懐かしい時間は立ち顕われてくる、そう思わせるような絵である。・・・いかに写生画といったところで写真ではない以上、かっての陣屋前がほんとにこのとおりであったかどうかはわからない。しかし崋山の筆があまりにもリアルで、店々のたたずまいがどうしようもなく確かなので、 町筋はこのとおりであったと断ぜざるえない。 ・・・」と記述している。
新町大手奉行屋敷の解説より(陣屋町公園内)
渡辺崋山「四州真景図巻(ししゅうしんけいず)」とは?
文政八年(1825)、紙本墨画淡彩・巻子(四巻)、重要文化財。
各縦は12.0~14.0㎝と縦はそんなに大きくない。横長の絵がほとんど。それが巻物になっている理由と思われる。
四巻からなり、第一巻は江戸出立から潮来到着までの旅の道程と略図、第二巻から第四巻までは各巻十図ずつ計三十図の風景が描かれている。
四州(武蔵・常陸・下総・上総)の特徴のある風景が中心。
湖畔・放牧場・川辺・山寺・浮島・花柳・砂山・港・岩礁・小湊・岬・崖・有名な岩など、今でいうパノラマ風に雄大な絵を描いている。
(当時遊覧客が見たかったであろう名勝)
大きなデフォルメは抑えつつ自然のディテールはしっかり、構図は現代の水彩画と変わらない。海浜の景、市井(しせい)の景などさまざまな実景が淡彩を加えて墨描されている。
人や馬は特徴を捉え、絵の中の人物は道具をもち働いている姿もあり。寺や建物はシンプルだが一目でわかる。デッサン・色使いも計算されている。
(この絵は墨描のもので、着色は後につけられたと考えられる。)
「山水空疎」 として観念的山水図を否定した崋山は、本図のような実景描写に卓抜したものを持っている。(*定本「渡辺崋山」第2巻 手控編より抜粋。)
「四州真景図」は当時の風景・建物・生活が良く描かれていて江戸の写生画の傑作といわれています。
*人物にペーソスが感じられる、見ていて楽しい。
崋山、利根川から銚子に入る
「四州真景」はとても上質な紙で描かれています。
崋山は特別ないい紙をもって下総の旅に出かけたのでした。
(旅の目的の一つには銚子のスケッチがあった?)
1825年(文政8)初夏に、崋山は(銚子)荒野村の豪商であった行方屋「大里庄治郎」方に滞在します。
崋山は、利根川から、銚子陣屋前で「新町大手奉行屋敷」の絵を描き、飯沼観音から利根川沿いを経て海岸へ、名勝巡りに行きました。文中には、川口の漁業の繁栄ぶりや、鴎の糞、和田不動尊よりの眺め、犬吠埼下の岩巡りなどの名勝を書き留めています。銚子の風景を描き、遊記を著す。
*江戸時代の銚子浜磯巡りとはどんな感じだったのでしょうか?
「銚子浜磯巡りの図」-江戸末期の銚子の様子を伝える
文政8年(1825)に崋山が銚子周辺に遊び絵を描いてから33年後ではありますが、銚子の様子が分かる絵が残っています。
それは銚子遊覧の目的で安政5年(1858)に赤松宗旦によって描かれた「銚子浜磯巡りの図」です。
【(二代目)赤松宗旦】
*千葉県博物館、利根町のHPより引用
文化3年(1806)下総国布川村生まれ(現在の茨城県利根町)の医者。
私塾を開き漢字及び国学を教えた。利根川流域の名所、物産、動植物、民話などを研究し「利根川図誌」を遺した。(文人で図誌の挿絵も描いた)
*相馬郡布川村は江戸後期、河岸として栄えた場所。

黄丸で囲んだところが銚子陣屋です。
幕末は銚子の名所を時計回りにて回ったそう。
(図の左が北で利根川、上が太平洋で、右側が屛風ヶ浦です。)
*当時のルートは点線です。左回りの矢印を目印として図に置いています。
【銚子浜磯巡りのお決まりコース】とは、
「銚子と文学者とのふれあい」より引用
飯沼観音から始まって、和田不動尊、川口明神、千人塚、川口、 夫婦ヶ鼻(めおとがはな)、黒生の浦、葦鹿島、霧ヶ浜、犬吠が崎(胎内巡り)、砥石山(今の愛宕山?)、仏が浦、長崎鼻、外川の浦(仙が岩屋)、大若島(犬岩)、名洗の浜、不動尊(不動山)というものでした。
【崋山の歩いた場所を想像してみる】
中央下「銚子陣屋」から左側にいくと「飯沼観音・圓福寺」に広い境内の奥に大仏が鎮座。お参り客がいて出店が沢山あり。

利根川に出ると大小様々な船があり、岸には高瀬舟が停泊しています。
(高瀬舟は、江戸に米や醬油など物資を運ぶ船です。)
利根川河口側を見ると大小様々な漁船があります。
陸側を見ると台地の森の中にに「和田不動尊」、さらに進むと「川口神社」があり。
(漁業の安全・豊漁を見守っています)
「仙人塚」から利根川の河口の突端、「目戸ヶ鼻(メドガハマ)」へ。
(目戸ヶ鼻は今はないと思います)
ここで右に折れて、利根川河口を出て太平洋の荒海へ。
岩を打ち砕く波を見ながら、「クロハエ(黒生)」、「アシカジマ」へ。
*下記は明治時代のアシカジマ(海鹿島)の写真です。

*“あしか”が名前の由来である海鹿島海岸。
現在はアシカはいませんが、江戸末期にはアシカはいたようで、銚子の年表に“あしか見物”をしたと記録があります。
「キリガハマ」(霧が出ていたのでこの名前、今の君ヶ浜)が続きます。
そして「犬吠が崎」(犬吠埼)へ。
*犬吠埼には灯台はまだありません、灯台が完成したのは明治7年(1874)のこと。

崋山は「犬吠が崎」の下で“胎内潜”をしたようです。
季節により巨岩が色調の変化をみせる場所です。
*大吠埼胎内潜(巡り)とは犬吠埼の下に降り岩礁の上をまわるルート。
(現在はルートが塞がっていて回れません)
「長崎ヶ鼻」をへて、しばし歩くと、外川の夫婦岩の風景。
「外川の浜」(外川)へ進むと南の沖に一丁ばかり離れて「仙が岩屋」(千騎ケ岩・せんがいわ)が見えます。
(遠くに漁船も沢山あったでしょう)

さらに「犬若(いぬわか)」へ進むと“犬岩(いぬいわ)”があります。
「名洗浦」は漁場、遠く飯岡方面に目を移すと、浪が打ち寄せる大きな崖「屛風ヶ浦(びょうぶがうら)」が広がっていました。
天気が良ければ、『富士の高峯(富士山)』が遥かに見えていたと思います。
(これで銚子浜磯巡りは終わりでした。お疲れ様でした。)
*銚子陣屋方面にもどる道中には、大きな水田が広がっていました。
(現在はキャベツ畑などです)
途中茶屋などに寄りながらの一日コースでした。
崋山は数日かけてスケッチしたといわれています。
*崋山が滞在していた行方屋大里家は荒野村通明神町にありました。
大里家から飯沼観音を抜けてスケッチで銚子の太平洋側へ向かう場合は、新町大手にあった銚子陣屋の前を通っていました。
(この銚子磯巡りの図には出ていませんが、飯沼観音に下の方、利根川沿いには「ヤマサ」の醤油工場と倉庫、内に入ると「ヒゲタ」。
さらに上流側の長塚には「遊郭・松岸楼」がありました。)
景勝地、限られた時間
「四州真景」はとても上質な紙で描かれています。
崋山は特別ないい紙をもって下総の旅に出かけたのでした。
彼が下総国を旅をした目的は心身の保養であったそうです。
銚子の豪商大里庄次郎と遊んだ利根川遊びでは、情感あふれる俳句や文章を残しています。旅を楽しんでいました。
銚子の浜を巡るには、高崎藩銚子陣屋の前を通らないといけない。
崋山は町中の絵は、銚子陣屋の絵“新町大手、町奉行やしき”を1枚描いているのみで、他には残していません。
この時期は江戸詰めで田原藩の仕事をしていた時期、目的を明らかにしないと旅に出ることも許されない時代、主たる目的は海防の調査だったのではないのでしょうか。
高崎藩銚子陣屋によることは、目的にはなかった?
銚子の街中を描いたのは“新町大手、町奉行やしき”の一枚だけ。
“新町大手、町奉行やしき”は、陣屋前の風景でした。
銚子の街の繁栄は予想外であり、目を奪われたものの目的は違ってた。
銚子は太平洋の外海が見どころ。崋山にとってスケッチが主たる目的ではないにしろ名所を印す絶好の機会。時間を惜しんで描いたはずで、街中を描くことは二の次だったのかもしれません。
情景と憧憬、外の世界へのあこがれ
下総への旅は、崋山にとって海防事務係としての調査・現状把握、藩における対策を図るための貴重な機会だった。
ただ「四州真景」はとても上質な紙で描かれいることをみれば、下総の旅でのスケッチを楽しみにしていた。
絵描きとしては至極当然なことと思いました。
岬を回り太平洋東突端の海の荒々しさに驚き目を奪われた。彼はその様子を絵としてとらえようと無心で描いた。銚子の自然を描かずしてなぜここに来たのかと。
外海の激しい波は岩を打ち砕き砂を巻き上げていたに違いありません。
(一時だけでも彼の頭の中から雑念を吹き飛ばした)
「四州真景」の絵から想像するに、下総への旅は崋山にとっていい旅だったのではないかと想像しました。
彼の自然に対する郷愁と憧憬を感じました。
それは“知らない世界を知りたいという”気持ちかもしれません。
*最後までお読みいただきありがとうございました。
*次回は、“渡辺崋山の生涯”について調べて記事を書きます。
「銚子と文学者とのふれあい」銚子市教育委員会刊、年表「江戸・明治・大正の銚子」岡田勝太郎編、「高崎藩銚子陣屋-ヒゲタが書き留めた高崎藩」高崎資料歴史研究会刊、定本「渡辺華山」第2巻 手控編、を参考にしました。
