江戸後期-銚子の利根川風景-船と文人-弘化3年頃-銚子陣屋-4

利根川を知らない人はいないでしょう。“坂東太郎”の呼び名で有名、日本の真ん中を流れる大河です。

今回は幕末の1846年(弘化3)頃の利根川の風景を調べてみました。

「高崎藩銚子陣屋」は利根川に近い場所にありました。
陣屋跡のある“陣屋町公園”から10~15分歩くと利根川に出ます。
(*「陣屋」とは今でいえば“銚子の役所”で領内の治安維持を行う場所)

【利根川】とね・がわ(トネはアイヌ語 tanne(長いの意)からか)。
関東平野を貫流する大川。新潟・長野・群馬三県の県界の三国山脈北部丹後山付近に源を発し、南東へ流れ、銚子市で太平洋に注ぐ。流域は群馬・栃木・埼玉・茨城・千葉の五県にまたがり、1万6840平方kmで日本最大。長さ322km。

広辞苑第六版より

【江戸時代、川の管理】
江戸時代、利根川は重要な大河でしたので「公儀」として幕府が管理していました。
治水は勘定奉行の担当で、現場は大名の代官が監督していました。
川の河岸などは銚子陣屋の管理下にあったと思われます。

銚子は利根川の船運を使って物資を江戸に運んでいました。経済人、商人はもとより、観光客が出入り。文人や画人などもいた。
江戸との交流もあり様々な情報も集まる場所。利根川は文化の交流においても大事な役割を担っていました。

今回は、当時利根川にあったであろう船や、利根川沿いの町風景、銚子を訪れた文人へと話を進めます。

(*時間のある時に読んでいただけると嬉しいです。)

江戸後期、銚子の利根川の船

利根川-銚子-明治時代
利根川-銚子-明治時代

利根川の飯沼周辺には高瀬舟、利根河口には沢山の漁船が並んでいました。
この当時はまだ利根川の流れは今より緩やかだったといいます。

*この時期の利根川に係留されていた船舶の内訳が、年表「江戸・明治・大正の銚子」に書かれています。

「弘化三年(1846)の高崎藩銚子領内の船舶数(町船など)」

【内訳】高瀬船(139艘)、伍代力船(73)、ちょき船(26)、ひらた船(16艘)、茶船(5)、渡船(2)、小高瀬船(2)、八手網(236)、伝馬船(120)、縄船(21)、鰹船(14)。
(「高崎藩御家事向大概」・『銚子市史』より)
合計で654隻、銚子領に籍のあった(銚子領内)船の数と思います。

【高瀬舟】大型の川船で、どんな高瀬でも漕ぎ上れるように底を平たく浅くしている船。米や醤油、酒などを木下などに運んだ。(夕刻に銚子をたつと、翌日の朝に木下に着いた。木下で1度おろされ、 陸路で松戸へ運ばれ、再び船に積まれ江戸へ渡りました。)
*大きなものは30mあり一度に1000俵もの米を積むことができたという。大きな帆を持っていて風景に映えたため、多くの錦絵に登場している。

「樽を運ぶ高瀬船」千葉県立中央博物館大利根分館蔵
「樽を運ぶ高瀬船」千葉県立中央博物館大利根分館蔵

【五大力給】木更津船とよばれ、東京港(近海廻り)で活躍した運搬船。年貢米や材木や物資を江戸や浦賀など対岸の湊へ運んでいた。 旅人を乗船させることもあった。(*上総安房の内房の海辺の村が多く持っていたという)

【ちょき(猪牙)船】屋根がなく先が尖った細長い丹脚の速い舟。名前の由来は猪の牙に似ている、二挺立ての頃の船頭長吉の名からという説もある。表に小さな屋形あり。

【ひらた(平田)船】通船の平たく大きなもの。石・そだ(粗朶)などを運ぶ
*粗朶(そだ)とは伐り取れ樹の枝のこと。粗朶は堤や川岸などの補強に使用した。

【茶船】江戸の庶民や文人が川や磯めぐりに使用した船。また運送用の小さい川船、また飲食物を売る川船、 川遊びに用いる小船。
*木下にあった「木下茶船」は、屋形つきの8人乗りで三社参り(香取、鹿島、息栖神社) の遊覧で使われた。江戸後期には、年間5000隻もの茶船が木下河岸を出て、佐原や銚子方面へ向かったという。
(*渡辺崋山も茶船に乗って下総から銚子に来たと思われます

【渡船】利根川の銚子と対岸の(常陸)波崎を連絡する船。
(*蒸気船などに変わり明治大正と続きました。昭和に入り車が増え銚子大橋ができたことで役割を終えました。)

【八手網】鰯漁で使う八手網を積んだ船。

【伝馬船】伝馬とついているので公用の船か(?)

物資を江戸に運搬する船、客を乗せる船、近隣を回る船など様々な船があります。船運が盛んだった江戸時代は川船から海の船まで様々な用途に応じて使われました。受け持つ仕事により名前も違っていたようです。(上記以外にも東北から物資を運んでくる東廻り船も出入りしていました)

*藩が持っていた船は、年貢米の輸送に使われる「御手船(おてふね)」などがありました。(幕府の統制下におかれていました)

**下記の写真は明治時代の利根川風景。
現在の大新旅館付近からとられたものです。
中央の船は“外洋で貨物を輸送する帆船”、右は“高瀬船”、左は“底引き漁船”になります。

利根川-銚子-明治時代-2
利根川-銚子-明治時代-2

利根川水運の発展と様子

利根川の河岸(かし)には船着き場荷上場があり、河岸問屋・船問屋が取り仕切っていました。彼らは荷物の積み下ろしや保管などに手数料を取って商売をしていました。
船を所有する者、 船で働く者、馬の世話をする者などが暮らすようになり、 往来する人々のための茶屋や旅籠、さらに遊郭、賭場がある所もありました。

銚子から江戸まで直行できたわけではなく、川は場所によって水深が異なるため、途中で別の船に積み直しするための“河岸”が必要となりました。
(*現在の印西市である「木下(きおろし)」もその河岸の一つでした)

幕府などにより盛んに河川改修が行われ、そこに新たな河岸が設置されると、河川の合流地点や分岐点、主要街道との交差点、城下町や門前町の河岸が栄えていきました。

*令和6年度企画展「利根川をゆく」展示より引用。

【なぜ川を使った物流が伸びたのか?】

幕府が江戸の防衛のために(大名に対して)大型船の製造を禁止したこと、街道を通る荷馬車の禁止川への渡橋を禁止するなど、陸路での物流の発展が難しかったために、河川による物流が発展したのです。

利根川流域・銚子の村々の役割を調べてみました。

江戸時代の利根川河岸-銚子
江戸時代の利根川河岸-銚子

「本城」
河口から入った場所のため、潮の関係などから東北地方からの大型船が停泊するのに適していました。そのため、“船はたこ”や夫のための旅籠屋や遊郭ができました。

「長塚」
江戸時代には、半農半漁の集落でした。船溜まりがあり、 風や波を避けるための船が停泊していました。

「松岸」
船で訪れた旅人が上陸する玄関口として、遊郭が置かれるなど旅人で賑わっていました。

「野尻、高田」
中世から続く水運が盛んな地域で、江戸時代には河岸が設置されました。戦国時代以来、飯岡・九十九里方面との結びつきがあり、御城米(幕府直轄地の年貢米)や干鰯などが集積し、江戸に運ばれました。
(*令和6年度企画展「利根川をゆく」展示より引用しました。)

銚子の川口側は、この年代は鰯漁が最盛期を迎えてい時期で、喧騒で賑やかだったと想像します。

・銚子の松岸側は、飯沼観音参りや遊覧の旅人も多く、情緒ある雰囲気だったのだろうと思いました。

江戸時代後期、銚子に近い利根川は二つの顔を持っていました。
利根川河口は漁場」であり、利根川上流側は「遊覧」でした。
様々な種類の船を想像するだけでも、江戸末期の利根川がいかに賑やかだったか、目に浮かぶようです。

江戸や遠方から来た文人・知識人

銚子は川と海がある名勝地、「飯沼山圓福寺」は坂東三十三観音霊場、他にも神社・仏閣が沢山あります。
江戸や遠方から文人・知識人が集まりました。

*この時期に銚子に来た知識人、文人の来銚記録から抜き出しました。

文化13年(1816)-嘉永7年(1854)

【文化13年】
・国学者「平田篤胤」来銚し講義をする。(文政2年、1819にも来ています)
・「十返舎一九」が銚子松岸・開新楼に来る。 (各所で歌会を催す)
※銚子市史より

【文政8年、1825】
・洋学者、画家の「渡辺崋山」が来銚。
・農政学者「佐藤信淵」来銚、海鹿島のあしか見物などをする。

【天保元年、1830】
・「十返舎一九」が来銚し、狂歌の会を催す。

十返舎一九(じっべんしゃ・いっく1765-1831)
江戸後期の戯作者。駿府生れ。大坂に行き浄瑠璃作者となり、1794年(寛政6) 江戸に出て戯作に従事し滑稽本を得意とした。
作「東海道中膝栗毛」「江之島土産」など。

広辞苑第六版より

【天保12年、1841】
・蘭方医「三宅良斎」が銚子にて開業。
・江戸商人「鈴木金兵衛夫妻」、飯沼村円福寺境内に句碑を立てる.

「ほととぎす 銚子は国の とっぱずれ」(古帳庵)

【弘化4年、1847】
・江戸の儒学者「大槻磐渓」が来銚、詩を詠む、

【嘉永5年、1852】
・「吉田松陰」、奥州巡歴の途中に銚子に来て、 銚子の防備なきさまを見て慨嘆し、漢詩に所懐を記録している。

「吉田松陰(1830-1859)」
幕末の志士。長州藩士。特に兵学に通じ、江戸に出て佐久間象山に洋学を学んだ。常に海外事情に意を用いた。萩に松下村塾(しょうかそんじゅく)を開いて子弟を薫陶。幕府の条約調印に関して事件を起こし捕えられ、翌年江戸で斬。(広辞苑第三版より一部引用)

*利根川は銚子と江戸の間を文化でつないでいました。

利根川の喧騒に思いをはせる

江戸後期になって経済が発展、人・物の移動が活発になる。経済のしくみが貨幣経済へと移行する。幕府も大名も諸制度の見直しを余儀なくされました。
変化していく過程では様々なあつれきが生まれたはずです。幕末はそれまでの歪が一気に出た時代でした。

銚子は諸藩からの年貢米などの物流の拠点であり東北と江戸をつなぐ海上交通の要所。豊かな漁場を持ち醤油の醸造、食をつくる町でもあり、幕府にとって重要な所でした。

貿易の拡大を求め近海には外国船が姿を見せます。飢饉など災害も頻発し農村は疲弊していました。商売が盛んになり豊かになる人もいた。賭場も増えて色々問題も発生したでしょう。

江戸時代後半は全国諸藩の領民(商工業者など)に対しての上納金などの要請は強くなっていきました。
噴火による降灰、長雨などの自然災害で領民が苦しむことも度々発生しました。異国船も沿岸に現れて、警戒や海防のためにお金が必要になりました。

お上の今までのやり方が通用しなくなっていました。陣屋は領民に対して頭ごなしに命令するだけでは解決できなくなっていきました。

今までのやり方を守ろうとする役人や武士もいました。
凶作の時に領民に施米する代官もあらわれました。
先見性を持った人々が新しい答えを求め始めました。

そんな風が吹き始めていました

*この記事で高崎藩銚子陣屋から始まった4つの話は終わりです。
足りない所が沢山あったと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。

*「銚子と文学者とのふれあい」銚子市教育委員会刊、年表「江戸・明治・大正の銚子」岡田勝太郎編、「高崎藩銚子陣屋-ヒゲタが書き留めた高崎藩」高崎資料歴史研究会刊、定本「渡辺華山」第2巻 手控編、を参考にしました。