昔千葉県北東部に海があった?-「椿の海」干拓事業-江戸から平成-干潟八万石物語

千葉県は農業生産が盛んな場所。なかでも北東に位置する匝瑳から旭市のあたりは米の一大生産地です。しかしこの地域は最初から豊かな土地ではありませんでした。昔の東総地域には、「椿の海」と呼ばれる大きな湖があったからです。それを干拓して耕作地にすることで豊かな実りが実現されたのです。(令和5年は椿海干拓が始まって350周年の節目の年でした)

今回は江戸時代から近代まで千葉県北東部で長い間かけて行われきた干拓事業についてご紹介します。
江戸時代の地図には「椿海」として形が地図に残されています。
現在のようにお米を沢山収穫できるようになるためには、多くの人々の尽力、汗と涙が土台となっていました。

千葉県下総国-椿の海-江戸前期
千葉県下総国-椿の海-江戸前期

*今回の記事内の歴史については、2023-2024年に千葉県旭市の大原幽学記念館で開催された「椿の海から干潟八万石のあゆみ」をベースにして記事を構成し、関連事項を追加で加えています。
(*記事が長くなりました。時間があるときに読んでいただけると嬉しいです。)

【大原幽学記念館】住所:千葉県旭市長部(ながべ)339、 TEL:0479-68-4933
農業協同組合の発展に影響を残した“大原幽学”について展示している記念館です。
*HPへリンクを張りましたので、こちらからどうぞ。(新しいタブが開きます)

本題に入る前に「椿の海について残る伝説」と「どうしてこのような湖が出来たのか」について、展示資料からご紹介します。

椿の海に関しての伝説

伝説によれば、その昔、猿田彦が植えた椿 の木が大きくなり、そこに悪鬼が住み着き、 悪さをして人々を恐れさせていた。そこで香取経津主命と猿田彦命が鬼を退治しよう としたところ、鬼は椿の木を引き抜いて、船にして海へ逃げてしまった。その時の水しぶ きが木を引き抜いた跡にたまり、湖となった。

大原幽学記念館展示より

どうしてこの湖が出来たのか

伝説とは裏腹ですが、椿海が形成されたのは、地球規模の地殻変動によるものと推定されています。
1万9千年前頃以降、極地の氷床が融け始め、のちに海岸線が進出 (縄文海進)すると、匝瑳市、旭市の干潟、海上、東庄町の台地眼下は海水で満たされた。約6千年前以降海 が引き始め、海岸線が後退することで、 地から6kmほど沖合に砂州が形成された。 これにより一面に広がっていた海は遮られ、台地下の水域は湖として閉ざされる陸地化が進み、古墳時代の頃には、おおよそ九十九里平野が形成された。

経津主大神 絹本着色 香取神宮蔵

椿の海から干潟八万石へのあゆみ

千葉県北東部に広がる水田地帯、ここは千葉県旭市・匝瑳市・東庄町です。

昔から江戸時代まで千葉県北総地域の真ん中に大きな湖があった。「椿の海」と呼ばれていました。
今は豊かな耕作地が広がり、とても信じられません。

旭市北部-田園風景-2024
旭市北部-田園風景-2024

大きな湖は東西に12km南北に6km、面積は5100haもありました。
大きさは諏訪湖の3倍、現在の旭市の面積の3分の1に匹敵します。
椿の海の回りには船着き場があり魚をとっていました。今も地名に残っています。

大原幽学記念館には出土された丸太船が展示されています。
丸太舟はカヌーの形をしていました。5~8mの一本の丸太をくり抜いたものです。
縄文時代の仲島遺跡からは魚や鳥の化石が出土されています。

椿の海の干拓申請から完成まで

江戸時代の初めお米は年貢であり、お金にも換えられる価値の高いもの。消費も城下町中心に拡大していきます。全国各地で新田の開発が行われていました。
幕府は新田成立後の一定期間は年貢を免除し元々の水田に比べて年貢を低く設定していた。そのため新田は町人や名家にとって投資する価値があったのです。

椿の海の開発願いは元和年中(1620年頃)、江戸の杉山三右衛門が幕府に出したのが最初といわれています。

転機となったのは数十年後の寛文年間(1670頃)、江戸の米問屋である「白井治郎右衛門」が干拓の計画を願い出ました。彼は「椿の海」から水を抜いて干拓すれば、田畑ができて沢山米が取れると考えました。お米をたくさん収穫するために、幕府も耕地を広げることに注力していましたので、さっそく幕府によって現地調査が行われた。

現地調査は行いましたが幕府は許可しませんでした。
幕府は干拓は可能だが、“水源の消滅は周辺の村々が渇水被害をうける”ため許可できないとしました。

なにより耕作するための水がなくなることを恐れたのです。

そこで白井治郎右衛門は幕府の大工頭であった「辻内刑部左衛門」を仲間に加えて申請しました。
幕府の事業で実績のあった辻内が発起人に加わったことで、幕府は「水不足に陥らないこと」を条件に許可します。
幕府の勘定奉行妻木彦右衛門らは現地調査を実施、工事が着工されました。

しかし排水ルートに疑問を持った地元の農民漁民の反対を受けて事業を中止します。

三川掘から始まった掘割工事だが排水路の工事は思うように進まず失敗しました。
白井治郎右衛門は資金不足に陥りました。人をうまく使うことが出来ませんでした。結果事業から外れることになります。

しかし仲間の辻内刑部左衛門は諦めませんでした。辻内は親戚である野田市郎右衛門と栗本源左衛門を仲間に加え資金を集めた。寛文10年工事は再開されます。(彼ら三人は三元締めと呼ばれました)ほかのルートで再開するがまたも反対で工事は中断した。

【三元締めとは】事業開発請負人。今の現場監督のようなもの
辻内刑部左衛門(幕府の大工)・野田市郎右衛門(材木商)と栗本源左衛門の三人。

辻内刑部左衛門が亡くなった後ついだ辻内善右衛門らは、江戸の「鉄牛和尚」の助けを借りて、資金を調達して再び事業を再開します。鉄牛和尚は江戸幕府老中「稲葉正則」の信頼が厚く、地元農民への働きかけを含めて干拓に大きな力を与えた。

【鉄牛(鉄牛道機)江戸瑞聖寺和尚:1628-1700】
寛永5年長門国(今の山口県)生まれ。隠元に学んで黄檗宗(おうばくしゅう)の僧侶となった。椿の海の干拓に際して江戸幕府と三元締とのパイプ役になり工事を完成に導いたといわれる。

鉄牛和尚の絵と辻内刑部左衛門座像-大原幽学記念館所蔵
鉄牛和尚の絵と辻内刑部左衛門座像-大原幽学記念館所蔵

湖水を海に流すには、8kmの水路が必要でした。
辻内らは反対する農民の審理が始まる前に工事を終わらせようと“突貫工事”に着手しました。

のべ4万人が参加、鍬を持って多くの労力を使い2カ月の作業を強行。
寛文10年(1670)井戸野・仁玉間の排水路工事を完成させました。(今の「新川」です)

しかしこれが大惨事を引き起こします。

千葉県旭市の新川(鎌数付近より)
千葉県旭市の新川(鎌数付近より)

湖水の放出で大きな被害を出した

寛文10年掘割工事が終わり水路が完成、寛文11年(1672)12月に椿の海の締切口が取り払われて湖水を流し始めます。大量の湖の水が排出されました。
その水の勢いは想像を超えるものでした。水は掘割からあふれでました。

下流は洪水に見舞われます。民家も耕作地も流されてしまいました。
井戸野・仁玉・駒込などその被害は7カ村だけで50町歩に及んだという。
用水源を失ったうえに、耕作地はドロ水でダメになり耕作が出来なくなりました。
沢山の人が流されて犠牲になりました。(そのなかには子供もいました)

干拓の中止を申し出るものもありましたが、辻内らは中止はしませんでした。
寛文11から12年にかけて14ヶ所の溜池とそれらを結ぶ惣堀がつくられました。
多くの排水路つくり水を逃すことにしたのです。

幾多の苦難の末、寛文12年に待望の大干潟が完成しました。

水が排出され新田は姿を表わしましたが湿地帯でした。
水が思うように排出されないこともあり、耕作地にはできませんでした。それでも延宝2年(1674)から新田の販売が開始されました。(1町歩あたり5両)

1688年三元締めは新田を隠し私腹を肥やしていることが発覚して、三人は追放処分になった。

湖水が減少して、元禄8年(1695)に椿新田検地が始まりました。
回りには多くの道がつくられ、18の村が生まれました。
【椿新田18ケ村】とは、(海上郡)幾世・清滝・大間手・長尾・高生・琴田、(匝瑳郡)新町・鎌数・晴海、(香取郡)米持・秋田・萬力・米込・入野・関野・萬歳・八重穂・夏目。

椿の海-干拓後の村-江戸時代下総
椿の海-干拓後の村-江戸時代下総

干拓地に人や物が集まり始めた時に三社五ヶ寺がつくられました。
三社五ヶ寺は村人のよりどころであり、土地の安全を祈願する場所。

【三社五ヶ寺】三社とは「鎌数伊勢大神宮」「高生八幡宮(椿神社)」「晴海水神社」です。
五ヶ寺とは「小南 福聚寺(鉄牛和尚墓所)」「鎌数広徳寺(三元締の墓所)」「晴海修福寺」「琴田海宝寺」「萬歳東福寺」。このうち「鎌数広徳寺」「晴海修福寺」の二つは廃寺。

現在は神社・お寺それぞれ3ヶ所づつ残されている。一番古いのが鎌数伊勢大神宮です。
伊勢大神宮は最初に干拓の堀削が始められた場所に創建されたと伝えられています。

鎌数伊勢大神宮-千葉県旭市
鎌数伊勢大神宮-千葉県旭市

神宮内の立て看板には、寛文11年(1671)までは、この辺りが海上匝瑳香取の三郡にまたがる大きな湖であったこと、江戸の人「白井治郎右衛門」、伊勢桑名の人「辻内刑右衛門」の力で椿の海が干拓されて田畑になった。「干潟八万石」と呼ばれたことが書かれています。

こうして干拓された土地ですが、まだ溜池と惣堀だけでは耕地を満たすだけの水が確保できず。水をめぐっての争いも続いてきました。
明治から大正と干ばつや洪水、暴風雨によって災害を受け度々被害を出しました。

大利根用水を利用して治水

この問題を解決するために、明治時代千葉県耕地課の技士であった“野口初太郎”が利根川から 水を引くことを発案。約20Kmはなれた『大利根用水』をひいて治水することになりました。

野口は大正5年(1916)干潟耕地の調査や、新川改修工事に携わった。
大正13年の干ばつ被害で農業用水の確保が問題になると、雨水をためる溜池を重視する農業から、利根川から水を引くことを思いつきその実現のために努力しました。

1935年(昭和10)に大利根用水事業を開始。
この事業は120万人の人が16年間かけておこなうもの、大変な工事でした。

この工事は地下水が問題でした。土を掘ると水が溢れだして土砂が出て工事をさえぎった。
さらに戦争の影響で工事の材料や人手が足りない。

地元の反対や太平洋戦争での中断、資材不足など難問がありましたが、粘り強く交渉を重ねました。

様々な困難を乗り越えて、1951年(昭和26)に大利根用水が完成しました。
笹川揚水所
が出来たことで干ばつや大水害の問題が解決されました。

【野口初太郎(1886-1978)】明治19年生まれ、銚子市の小学校を卒業。千葉県耕地課にて県内の耕地整理をおこない、のち東総地域の農業用水の問題にかかわるようになりました。笹川揚水機場跡に石碑があります。

大利根用水が完成するも、別の問題が起きた。

利根川の水が入ったことで、水の逆流があり海の水が大利根用水から干拓地に入り始めた。
海水が入ることでイネが枯れてしまう塩害が発生しました。

1971年利根川河口堰が出来たことで、海水がさかのぼらないようになりました。
これで塩害を解決したのです。

大利根用水のあゆみ-大原幽学記念館展示より
大利根用水のあゆみ-大原幽学記念館展示より

350年にわたる「椿の海干拓から大利根用水事業」が完成した

大利根用水事業が完成したのは、工事が始まってから50年以上がたった平成4年(1992)でした。
265年の江戸時代からそれ以前を含めても日本で行われた最も大きな干拓工事です。

長年にわたり様々な困難を乗り越え、沢山の人びとが力を尽くして完成した工事は歴史に残る大事業。
千葉県北東部にあった「椿の海」、それを耕作地に変えるべく尽力を尽くした沢山の人々がいました。
350年にもわたる大事業の歴史が「干潟八万石物語」です。

まとめ:今も残る農民の願い

椿の海の湖水が排出されてから25年後、18の村ができました。
その名前には人々の願いが込められていました。万歳、幾世、鎌数など縁起をかついだものもあります。当時つくられた溜め池は一部が今も残り、袋の溜め池は農業用水として、長熊は釣り堀として活用されています。

江戸時代から現在まで、下総の東総地域で田畑を守り米を作り続けいている人々がいました。その豊かな土地は沢山の人が困難に負けず作ってきたのです。

*江戸時代に始まり完全に終わったのが平成であった。干拓は用水事業を含むものでありとても難しいこと、広大な田畑であり交渉含め長い時間が必要であったことを知りました。

辻内・鉄牛らの先人が旭市・匝瑳市・東庄町一帯の農業の礎を築きました。
「椿の海の干拓」を途中であきらめたり投げ出したりしていたら、今の千葉県東総地域の農業の発展はなかったかもしれません。

明治時代野口初太郎は水の確保で争いがあった東総地域の問題を解決しようと、その人生をかけて「大利根用水事業」を完成させようと努力しました。

「干潟八万石物語」の干潟は、旭市の地名として残っています。
干潟とは、国語辞書で調べると“潮の引いた海”のこと。「干潟八万石」とは、当時の人々が大きな益をもたらすことを願ってつけられた地名だそうです。

*豊かで美味しいお米は、当たり前にできたものではない。
多くの先人の仕事に感謝していただきたいと思いました。
最後までお読みいただきありがとうございました。

**2024年大原幽学記念館で行われていた千葉県150周年記念事業「椿の海から干潟八万石のあゆみ」、「あさひ輝いた人々」千葉県旭市刊を参考にしました。

今回千葉県誕生150周年記念事業「椿海干拓350周年記念、干潟八万石物語」を見られて勉強になりました。

*参考までに干拓で生まれた椿新田の面積など数字については下記のとおりです。

椿新田が出来たころの面積、草高(総収穫量)

元禄8年(1695)に検地が行われて18カ村が成立した。

元禄8年開拓第一成功期の測量計算によるものとして、
【面積】5,130,198平方メートル(五千百三十町二畝歩)。
*約513ヘクタールであり東京ドーム(4.6ha)およそ124個分。
【周囲】40,881メートル(十里八町六間一尺)
【草高(総収穫量)】3,387,9キロリットル、3,066,639.3kg。
(二万四百四十四石二斗六升二合)
*一反は約1000平方メートル。1石は180リットルで重さは約150kgめあす。
(一反につき300~600キロと見積りされていた。幕府領では1俵の重量は約60Kg)

*干潟開発三百年記念誌「追遠」花香幸作編集 より一部分を引用