千葉県の北東部(匝瑳市から旭市のあたり)は米の一大耕作地です。
江戸時代初め千葉県の下総は、大きな湖におおわれていました。“椿の海”です。
椿の海は諏訪湖の4倍ありました。この椿の海を干拓して水田にしたのが、発展の土台にあると言われています。
この椿の海を題材にした小説があります。「椿の海」矢的竜著です。
この小説を読んでこの時代の農業について興味が湧きました。そこで農業を中心にして、江戸前期の時代背景を調べてみました。

小説「椿の海」を簡単に説明
物語の時代:明暦(江戸時代前期:1655-58年)
*江戸時代は、1603-1867年までの約260年間の称(徳川時代・近世)
お話の舞台:下総国(千葉県北東部、今の匝瑳市から旭市のあたり)
江戸時代初め千葉県の下総は、大きな湖におおわれていました。
『この海を干拓すれば米の一大耕作地になる。』
そうすれば多くの米を作ることができる。それは沢山の人々の生活を豊かにすることができるはずだ。そう考えた人がいました。
米問屋の家主がいだいた壮大な夢が最初ですが、資金不足にも陥り話は頓挫します。数年後に事業は動き出しますが幕府の利害もからみ難航。お役人の思惑や農民の反対などが交錯。様々な人の犠牲をともなったのち椿の海の干拓は完成します。様々な人災・災害に苛まれながらも、あきらめることなく前に進んでいった人々の歩みが書かれています。
江戸時代前期の農民の生活や時代背景なども丁寧に描かれている物語でした。
「椿の海」矢的竜著-株式会社双葉社刊を読んだ感想でした。
*椿の海の干拓でできたころの農業について調べてみました。
【江戸時代前期の農業】
江戸幕府の産業政策について
徳川政権は1600年に徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利して、1603年幕府を江戸に開いた。
基本的に戦国大名であり、前期の産業政策は諸藩と同様に戦国大名がしてきたことの継承。封建体制を基盤としていた。
生産力構造としては、小農経営を成立させて城下町を中心とする領国内の流通機構を整備することに重点を置き、年貢米も特産品も徴収して、領主の統制する城下町の特権商人である問屋の手によって領国内に販売していた。まだ全国市場との結合は十分ではなかった。
*後に幕府の統一政権は、全国市場の成立とその継承によってその結合を果たすことができた。
産業政策は農業を重点とし、その基本体制を守り領国内の領主を取り巻く家臣団や城下町の住民の消費のため商品が生産されていた。一般の庶民の生活の向上を目指していくような産業政策をとるまでには至っていなかった。
江戸前期に農業が発展
江戸時代、農民は総人口の80パーセントを占めていた。
幕藩領主が最大の収入としていたものは、農民から取り上げる貢租(こうそ)であった。そのために領主は経済的基盤を農業に置き、農民を支配の主要な対策として農業を強力に統制してきた。江戸時代の農業は領主支配に規定される特色があった。
農民は農業をやめて田畑を手放すことは自由には出来なかった。田地を持つ農民は年貢である米を作り、作物は自由には選べなかった。
江戸時代(約300年)に農業はかなり発展した。耕地面積は16世紀末に全国で約150万町歩であった田畑は、18世紀前半には約300万町歩に増えている。石高は16世紀末に約1800万石だったものが、19世紀前半には3300万石に増えている。
江戸時代の農業を支えたものは小農であった。小農のほかに年雇いや季節雇いを使って数町歩の耕地を経営したものや、作物の一部を商品として売り出す農民もいた。その反対に耕地を借りて農業を営む小作農も存在した。また前代よりの初期の本百姓ものこっていた。中期以降になると都市の発展もあり作物の商品化も進んだ。
【本百姓とは】江戸時代に隷属農民を抱えて大規模な農業を営んだ人。
江戸前期の用水
江戸時代に入ると大規模な新田開発が活発に行われた。
そのために治水・利水工事が各地で行われ、灌漑や飲料水のための大規模な用水が開かれていった。
*江戸時代中期に入ると治水・利水の技術も進んでいく。
農作業の様子
1697年刊行「農業全書」に載っている農業図(四季耕作図の手法)によれば、春には鍬を使った耕起、馬鍬を使った整理(代掻き)、手鍬で耕す人もいた。
種籾の俵は天秤棒で畦道に運んで準備。苗代ばらまきによる播種法、畦道からは下肥(しもごえ)を使って苗に肥料を与える。
苗取りで抜いた苗は田植する場へ運ばれる。田植えは早乙女により行われ、灌水と除草を行って管理される。田植えも除草も近隣の農家がお互いに人員を補い手伝っていた。
秋の収穫時、稲刈りは鎌で根切りする。束ねられた稲は野天で乾燥させた後、穂を抜こき落とす。
*中期から後期には農機具も進歩していき収穫も多くなっていった。
*江戸前期は、農業が発展するための準備段階であったのではないかと推測しました。
小まとめ
この時代は農業が主要な産業でした。そのために利権を持っている役人も沢山いました。農民も官に対して影響力を持っていました。また地方都市が発展し商品の流通が盛んになるにつれて地方の問屋の力も増していきます。時代は農業の発展を望んでいました。
まだ庶民の生活は楽ではありませんでした。人々を豊かにしたいという夢をもった商人が出てきました。皆に豊かさを広げたいという野望がありました。しかし江戸時代前期は戦国時代の封建主義も残っていました。椿の海の干拓は利害関係もからみ、事業は順調ではありませんでした。
治水技術もまだまだ十分ではありません、そのうえ十分な準備が必要でしたが時間がない。事業を拙速に、急ぐ人がいました。結果この地域は多くの主に農民の被害を出しました。
時代の背景を調べると、様々な障害があり、干拓がかなり難しいものであったと想像できました。
*現在の千葉県東総地域は農業の一大生産地で、都市部に沢山の農産物を出荷しています。
田畑の豊かさは干拓の長い農民の苦難の歴史があってのことでした。
(注意)記事の中には一部推測もあります。
*参考として、椿の海の干拓でできた椿新田の数字を下記に書きました。
椿新田が出来たころの面積、草高(総収穫量)
元禄8年(1695)に検地が行われて18カ村が成立した。
元禄8年開拓第一成功期の測量計算によるものとして、
*干潟開発三百年記念誌「追遠」花香幸作編集 より一部分を引用
【面積】5,130,198平方メートル(五千百三十町二畝歩)。
*約513ヘクタールであり東京ドーム(4.6ha)およそ124個分。
【周囲】40,881メートル(十里八町六間一尺)
【草高(総収穫量)】3,387,9キロリットル、3,066,639.3kg。
(二万四百四十四石二斗六升二合)
*一反は約1000平方メートル。1石は180リットルで重さは約150kgめあす。
(一反につき300~600キロと見積りされていた。幕府領では1俵の重量は約60Kg)
*最後までお読みいただきありがとうございました。
「椿の海」矢的竜著-株式会社双葉社刊を読んだ感想とその背景を調べました。
また「百姓の力 江戸時代から見える日本」渡辺尚志著 柏書房刊、干潟開発三百年記念誌「追遠」花香幸作編集を参考にしました。
*次ページでは、『江戸時代前期の村社会』について調べています。
時間のある時に読んでいただけると嬉しいです。
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