関寛斎(1)-東金出身蘭医-日本人に非ざるスケールを持った偉人

司馬遼太郎は、「関寛斎はこの世の中にあって、日本人に非ざるスケールの持ち主」と言ったそうです。

関寛斎は江戸時代に現在の東金市に生まれ活躍した医者です。
ご存じない方に簡単にご紹介します。

【関寛斎】

1830年(天保元)今の千葉県東金市に生まれた蘭医。
佐倉順天堂で医学を学び銚子にて開業する。長崎ポンぺから西洋医学を学び徳島藩医になる。のちその職を辞して北海道へ渡り斗満(陸別)の開拓に挑戦した。

司馬遼太郎著「胡蝶の夢・関寛斎」には、「およそ日本人に非ざるスケールをもった人」と言った理由は書かれていません。しかし他の本を探していたところ、「房総の秘められた話、奇々怪々な話」の“北海道に町を築いた老医聖、関寛斎(東金市)”の記事内や“斗満の河”に、その理由を想像させる文章を見つけました。
その文章を加えて自分なりに関寛斎の人物なりを推測してみました。

司馬遼太郎にそう言わせた人、関寛斎とは、どんな人だったのでしょうか。

関寛斎の風貌

本に登場する寛斎の風貌を書きます。
三十代半ば前の様子「歯が悪く、前歯が二本抜け落ちていた。それにひからびた蜜柑のように水っ気のすくない体質だったために、老人のような相貌に見えた」「小芋のような顔」*胡蝶の夢より
年老いた後は、徳富蘆花によると「長い灰色の髪を後に撫でつけ、あごにちとの疎髯をひらひらさせ、木綿づくめの着物に‥‥」と書いています。上の写真がそうですね。

性格・生き方

「高貴な単純さ、確かにかれ自身の性格、思想、生き方は神に近いほどに単純であった」*胡蝶の夢より
「反骨精神が豊かで、もって生まれた自由人」
「社会的な栄誉などまったく望まなかった」
「性格が強く正義感があり、若者のような志を持つ」
「気骨の人」「軽はずみなことは大嫌い」

寛斎の呼び方

人々は彼をさまざまな呼び方で呼びました。
ある人は「三つの郷土を持つ人」といい、ある人は「最後の蘭医」、またある人は「野の人」「北海道開拓の恩人」と呼びました。偉大だが様々な顔を持つ「不思議な人」でもありました。

*「胡蝶の夢二」司馬遼太郎著、「関寛斎物語」吉井永著 多田屋刊(株)刊、「斗満の河」乾浩著を参考にしました。

寛斎が医療として成し遂げた数々の仕事は、人々のために行われました。相当の苦労と苦難がありました。彼の歴史を追いかけてみました。

関寛斎の生きた時代、日本を取り巻く状況、千葉、徳島の様子

司馬遼太郎著、『胡蝶の夢二・関寛斎』の記述より、彼の生きた時代が描かれています。
寛斎を語るにあたり、彼が生まれ生きた時代の「日本を取り巻く状況」「千葉」と「徳島」を様子を調べました。

関寛斎は1830年(天保元年)下総今の千葉県東金東中井に生まれます。
豊太郎(寛斎)は4歳の時に母を亡くし父も再婚して、8歳までに養育者が次々と変わっていきました。そして13歳の時同市前之内の儒者・関素寿の養子になります

『日本を取り巻く状況』

嘉永・安政期は、内憂外患、幕末の動乱期に入っていた。
ペリー来航など動乱の時期であり、幕閣重臣は「開国するか」「鎖国政策を続けるか」の議論が紛糾して政争を繰り返していた。為政者は外国船に対しての海防策と脱藩浪士たちの尊王攘夷運動をどうやって鎮圧していこうかを考えていた。
「1858年(安政5)コレラの大流行があった」
世界的第3次のコレラ流行は、規模が大きく西から伝染していき特に江戸は深刻だった。しかし為政者や有力者などは混乱し、幕府のお膝元の江戸で数万人の死者が出ていた。コレラの治療は幕府御典医であった漢方医の力では治癒させることはできず、やむなく蘭方医を登用した。これが蘭方医を公認するきっかけになった。

『この時代の千葉県』

胡蝶の夢によると「その当時関東の利根川流域は天領や旗本領が多く、いわゆるお上の監視の網が粗かった」
「商品経済によって(台頭して)現金が動くことが多く発生して賭場の地盤にもなった。」
江戸ではコレラが蔓延していた。浜口梧陵は江戸での流行に心を痛めていた。千葉県にもその影響は及んでいました。

長ずると、寛斎は1848年(嘉永元)佐倉順天堂の佐藤泰然に医学を学び、1856年(安政3)銚子港に開業した。銚子で開業していた三宅艮斉の後釜でした。このころ銚子のヤマサ醤油社長の浜口梧陵と出会います。彼の知遇をえて長崎に遊学したのです。

梧陵との出会い、彼に影響されたこと

銚子で開業していた寛斎は、梧陵の招待を受けて家を訪問し出会い世界情勢から商売・お金・医療など色々な事を語り合いました。

梧陵は37歳で寛斎は十歳年下でした。寛斎は、教養ある梧陵の人間としての度量の大きさを感じ取りました。

梧陵の表情から高い理想に向かう情熱と行動する強い意志を学んだのかもしれません。
浜口梧陵は関寛斎に銚子のコレラ対策を依頼します。二人は力をあわせて銚子をコレラの蔓延から救ったのです。

浜口梧陵は西洋医学の必要性を痛感しました。そして関寛斎の医者としてのすばらしさも再認識しました。梧陵は寛斎に長崎の蘭医ポンぺのもとへの留学をすすめました。
寛斎は梧陵の熱心なすすめと援助があり、長崎で西洋医学を勉強しようと決意するのです。

寛斎の残した言葉

1860年(万延元)長崎で遊学したとき蘭学医のポンぺの門に入って西洋医学を勉強してその奥義をきわめた。

「自分というのは経験によって出来るだけで、人間という生物としては自己も他者もない」という思想をもっていた。これは長崎で医学を解剖学を学び人間をよく観察することで知ったことでした。

【ポンぺ】
オランダの海軍軍医。1857年(安政4)来日。長崎の養生所(精得館)の教頭として西洋医学を教授。出典:広辞苑第三版

1862年(文久2)銚子に戻ってきました。
銚子でコレラの防疫と治療をおこなう。しかし佐倉順天堂時代の同門の強い勧めで徳島藩の典医となることを決意します。(銚子への恩返しの気持ちもあり何度も断ったそうです)

阿波徳島蜂須賀家に引っ越して仕える

のちに寛斎は、阿波徳島蜂須賀家(25万7千石)に侍医として仕えます。
阿波蜂須賀侯に仕えて、藩医となり、幕末維新の戊辰戦争の時には奥羽に出張し、奥羽出張病院の頭取として活躍、各地で医療活動を行った。また徳島医学校の創設に力を尽くしました。
その功績によって将来の地位を約束されることになりました。

【戊辰戦争(ぼしんせんそう)】
1868年(明治1、戊辰の年)に行われた官軍と旧幕府側との戦いの総称。鳥羽・伏見の戦、上野の彰義隊の戦、奥羽越列版同盟、会津落城、箱館戦争などを含む。出典:広辞苑第三版

『この時代の徳島県』

「胡蝶の夢」によると「長州藩が反幕的な態度があったのにたいして、徳島藩は時勢に鈍感であった。藩主の蜂須賀斉裕(なりひろ)は隠居のように活気に欠けていた。周りにいる無能な門閥家老たちと違い、両眼に英気のある寛斎は好まれていた可能性はあった」と書いています。

徳島藩・阿波徳島蜂須賀家

阿波徳島蜂須賀家は、吉野川(別宮川)の河口の南岸の沖積地、徳島城はそこにつくられました。
阿波徳島蜂須賀家における侍医25人扶持、米取り、世禄を持つ高等官である石取りではありませんでした。

徳島藩での関寛斎の生活

阿波は上方文化圏にぞくしていました。「当時生まれもつかぬ土地へ行って暮らすのは地方から江戸・大阪へでてくる以外ありえない時代でした。とくに城下町はそれぞれの文化に特徴があり他国者が移住するのは精神的に困難であり、ましてや家臣団の文化は特徴がありました

寛斎は、関東の田舎の出身で、身分が上昇して、徳島の「御家中」になり上土の礼遇をうけました。
違和感はあったのです。救いは彼が技術者として見られていたことでした。
*当時、医師・儒者・絵師の3つは頭を僧形にさせるなど技術者としての仕事であり、誇りが持てる自由な地位でもありました。

1873年(明治6)、関寛斎は「地位」をすて農民・一平民に

しかし、蜂須賀侯に気に入られ将来を約束されていたにもかかわらず、寛斎は反骨精神が豊かで、もって生まれた自由人である寛斎は、社会的な栄誉など、まったく望まなかった。

徳島県に戻ってからは、1873年(明治6)禄籍ともに奉還、士族であることも返上し、東御殿跡で開業して、地域医療に尽くしました。

一平民に戻って、徳島で開業し、三十年間、医療に献身したのでした。
このため、徳島市民の敬愛を一身に集め「医聖」と称えられた。

寛斎は、渡道の決意を固めます

1901年7月、寛斎71歳、愛子65歳、二人は金婚式を行います。
寛斎はこの金婚の祝日の席上で「私共は、これから北海道へ渡り、一開拓民となる。」と皆に伝えました。人々は「関の大明神は気が狂った」とあっけにとられたそうです。

*前半はここで終了です。
後半、寛斎は72歳の時「北海道斗満」開拓へ向かいます。
普通であれば考えられない行動です。その目的は何だったのでしょうか?

*ここまでお読みいただきありがとうございました。