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翼を広げ飛ぶカモメ

関寛斎(2)-北海道開拓へ-地位名誉をすて理想を信じて生きた人

司馬遼太郎は、「関寛斎はこの世の中にあっておよそ日本人に非ざるスケールをもった人間であった」と言ったそうです。


【関寛斎】
1830年(天保元)東金市に生まれた蘭医。佐倉順天堂で医学を学び銚子にて開業する。長崎ポンぺから西洋医学を学び徳島藩医になる。のちその職を辞して北海道へ渡り斗満(陸別)の開拓に挑戦した。








司馬遼太郎にそう言わせた人、関寛斎とは、どんな人だったのでしょうか。
ここからが後半になります。







老いてからの北海道開拓




関寛斎は1902年(明治35)72歳になって、北海道の開拓を志しました。
寛斎は北海道へ移住するべく愛子夫人とともにその準備を始めます。
北海道での厳しい生活を想定した野外生活、質素な生活ぶりに周りの人は寛斎は気が狂ったとの陰口をたたくほどでした。
そして若者も驚くような闘志を抱いて、愛子夫人とともに人跡未踏の十勝国「斗満(トマム・今の陸別)」の地に入植したのでした。




実際に北海道へ渡った寛斎は、想像以上の厳しい生活に言葉を失くました。




1902年(明治35年8月)寛斎は斗満(今の陸別町)に向かいます。
愛子夫人は、札幌に一人残されることになりました。




寛斎は深雪や害獣と闘いながら、必死に働きました。マムシのかたまり、毒虫(ブヨ・アブ・蚊)、ねずみの大群、熊との出会いなどに寛斎は大声をあげて助けを求めたこともあったそうです。




札幌の愛子夫人の元には寛斎の牧場から良くない話が聞こえてきました。開墾が困難を極めた上に思うように作物も実りません、「寛斎と息子の又一が考え方の違いから不仲であった事」や「零下37~38度の牧場での馬の凍死」、「牧場労働者の落胆」などが耳に入ってきました。愛子夫人は寛斎と又一を仲直りさせようとしていたそうです。
しかしその気持ちを又一に直接伝えることはできませんでした。
1904年(明治37年5月)札幌の愛子夫人は体調をくずして、斗満の原を見ることなく亡くなりました。




寛斎は、村づくりに挑むこと十年で、ついに陸別の町を建設したという。
陸別町では「建町の祖」として寛斎翁をまつり、町を挙げて彰徳に努めています。




寛斎がなぜ北海道の開拓に行こうとしたか




陸別町ホームページの紹介記事によると「日本の産業の発展のために必要な地として注目された北海道の開拓を志した」との記述があります。
また「斗満(トマム)の河 関寛斎伝」乾浩著によると、「貧困に喘ぐ人たちを見過ごせず、食料を与えるために農業を志して、73歳で北海道に渡った」と書いています。なんと壮大な志でしょうか。




【陸別町とは】








アイヌ語のリクンベツに由来し、意味は高く上がっていく川、又は危ない高い川。昭和24年以前は淕別(リクンベツ)でした。日本一寒い町として有名。東北海道のほぼ中央(十勝地方の北の端)に位置し、道東観光の拠点として最適。
*出典:陸別町ホームページより




・陸別町には「関寛斎資料館」があり偉業を紹介しています。
・「陸別町国民健康保険関寛斎診療所」という陸別町内唯一の医科医療機関には彼の偉業に敬意を表して名前を採用しているとのこと。
・また陸別町では将来町で活躍する医療介護技術職員の養成を目的として修学資金貸付制度も用意しています。(2020年6月調べ)
*町を挙げて関先生の偉業や思いにこたえているのだなと思いました。




司馬遼太郎「関寛斎の人間像」に対しての結論(思ったこと)




関寛斎が他者のために大きな仕事を次々と成し遂げていく人生は、「房総の秘められた話、奇々怪々な話」の中で筆者は、義民ではなかったが義民に準じるような一生を送っていると書いています。




【義民】
正義・人道のために一身をささげる民。江戸時代、百姓一揆の指導者などを呼んだ。出典:広辞苑第三版




「斗満(トマム)の河 関寛斎伝」乾浩著によると、寛斎は千葉では千葉県の先駆者として記述が大きいわけでもなく、徳島で医師として貧しい人のために三十年も尽くしたが、世間にもてはやされた訳ではない。郷土の人々に当時の西洋の医療を提供しつづけ、地域医療を支えたのです。市民より敬愛を受けていました。




それに満足することなく彼の志は高く、自分の理想・夢を持ち続けていました。社会の善を求めていきました。




*自分には文献から推測するしかないのですが、この厳しい時代に彼の『正義感と行動力』は凄いと思いました。




関寛斎は、医者として成功にこだわることなく千葉・徳島・北海道と移り住みます。地位や名誉をすて、度々郷里に寄付、困窮者を支援するなど、その「人格の大きさ」「人間性・社会性」と「決意・実行力」は、到底普通の日本人をはるかに超えた大きさ・強さであった。




これが司馬遼太郎をして「寛斎はこの世の中にあっておよそ日本人に非ざるスケールをもった人間であった」といわしめたものだったのではないでしょうか。




寛斎の目指したもの




前の文章で書きましたが、斗満の牧場での、寛斎と息子又一の関係は不仲でした。その理由は農場経営についての考え方で、寛斎は「農場を拓き、それを小作人に分け与えて自営農業を定着させよう」としていたのですが、息子の又一は「大規模農業」を目指していました。




寛斎の「自営農業の定着」は、『貧しい人に土地を与えて生活を楽にさせてあげたい』という寛斎の強い思いでした。又一の「大規模農業」は先駆的なアイディアでした。お互いに考え方は間違えていませんでした。




寛斎の千葉県東金常覚寺、養父で儒者の「関素寿の碑」の碑文には「世の為、貧しい人の為に尽くせ」と素寿の教えが書かれています。




上総の貧農の家に生まれた彼は、農民の暮らしを誰よりも知っていました。貧しい農民は家中から病人が出たら死ぬのを待つしか仕方がなかったことや、もし医者にかかれば薬代のために一家が飢えるしかないことも知っていました。
医療に従事し千葉・徳島で貧しい人を救ってきた寛斎にとっては、場所は違えど「世の為、貧しい人の為に尽くすこと」は当然になすべきことだったのかもしれません。




1912年(大正元)10月、寛斎は自宅にて一服の薬を取り出し、そして従容として自ら命を絶ちました。82歳の秋でした。




*千葉県東金市、東金線東金駅南口を降りて駅前の東金中央公園(イオンの隣)に「関寛斎の像」があります。




*「斗満(トマム)の河 関寛斎伝」乾浩著 新人物往来社刊
「関寛斎物語」吉井永著 多田屋(株)刊
「房総の秘められた話、奇々怪々な話」 編者:大衆文学研究会千葉支部 崙書房印刷 より引用・参考にしました。
*陸別町ホームページを引用・参考にしました。