醤油が結ぶ縁-醤油と黒潮-銚子市と湯浅町-前半

醤油の発祥の地『紀伊湯浅』、今の「和歌山県有田郡湯浅町」と「千葉県銚子市」との接点を追いかけました。

*「醤油屋ばなし・海人がたり」の黒潮の道より引用・参考にしました。
引用した文章は「」をつけています。そこに感想も加えて書いています。

1、位置関係から見てみよう。

「和歌山市からリアス式の海岸に沿って南へ、みかんの有田市を過ぎると湯浅町である。」
和歌山県でも西側の和歌山湾側になります、リアス式海岸というのが意外でした。

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【距離】
銚子市(銚子駅)から湯浅町(JR湯浅駅)へGoogleMapにて最短距離を測ってみた。車で新東名高速道路を使用して約703kmと出ました。所要時間は約8時間52分でした。電車だと新幹線使用して7時間30分くらいです。

【リアス式海岸】
岬・湾・入り江などに富み、出入りの多い複雑な海岸線をもつ地形。起伏の多い山地が沈水してできたものと考えられる。日本では志摩半島・三陸海岸などに見られる。

「言うなら醤油の母親、金山寺味噌はお土産の筆頭だった。醤油屋と見る構えの家々はみなこれだった。」

【金山寺味噌・径山寺味噌】
いり大豆と大麦の麹(こうじ)をまぜて食塩を加え、ナス・ウリ・ショウガなどを刻み込んで熟成させたなめみそ。

「特産湯浅醤油、紀州藩の保護に栄えに栄えた歴史をもつ。『お仕入醤油屋』の標札を掲げ、運送船には丸にキの字の旗をあげて御用船同様の権限をもち、金融も受けることができた。醤油問屋は江戸でも大阪でも、藩邸の隣に設けられ、代金取り立てを藩が代行して営業を助けた。
明治維新でこの全面保護は消滅したが、なお日露戦争頃までは蓄えられた力で盛況を続けた。けれども次第に衰えて、生産量・品質ともに関東に奪われていったのである。」

文化期の醸造者は92名、戦争中は35軒、昭和40年を越えると4軒しか残らなかったとある。

【紀州藩】
江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩とも呼ばれる。紀州家は徳川御三家の一つ。石高は55万5千石。松坂城に城代を置いた。

湯浅町について調べてみた。
湯浅は地形的に熊野街道の宿場として、また紀伊水道の港町として位置と地形に恵まれている。江戸時代、交通の要所であった湯浅は商業都市として発展をしてきました。その核をなしたのが『醤油』で、紀州藩の保護を受けて発展しました。醤油の発展は運搬のための海運業や、醤油に関係した工業製品も発展させて、豪商も生み出しています。下総に進出して醤油醸造業を始めたものもいました。銚子の醤油産業のルーツにもなりました。

醤油産業は、色々な他の産業の発展にも影響を与えた。銚子とよく似ています。
*湯浅町役場HPを参考にしました。(立派なHPです)

2、醤油について
醤油が生まれたことで、紀伊湯浅と銚子の縁があるわけでそこを避けては通れない。
「醤油の醤はひしおと読む。肉なり魚なり穀類なりを塩漬けにして、貯蔵すれば腐敗もなく保ちうることを発見した人々が、その副産物としてひしおを得た。魚や肉のひしおなら『しおから』であり、豆のひしおは『なめみそ』である。」

ひしお【醤】
なめ味噌の一種。小麦と大豆で作った麹(こうじ)に食塩を入れ、塩漬けの茄子・瓜などを加え、10日間くらいかき混ぜて熟成させたもの。
出典:広辞苑第三版より

しおから【塩辛】
魚介類の肉・内臓・卵などを塩漬けにして発酵させた食品。

なめみそ【嘗め味噌】
魚・肉・野菜などを入れて調味した副食用の味噌。金山寺味噌・ゆず味噌・鯛(たい)味噌など。
*なめみそとは、中国の岸で作っていたと言われている。

話がすこしそれるが私が幼少の時によく『しおから』の瓶が食卓に上がっていた記憶はある。やたらショッパかった。
明治から昭和初期にかけての伝統的な製法では材料3に対し食塩を1(食塩濃度約23%相当)を加えるものが多かったという。ただ地域や素材により塩分量はバラバラである。
出典:ウィキペディア

3、黒潮の道
「黒潮の道が通じていなかったなら、永久に相まみえることのない、つながる何の必然性も見出しえない2地域であった。こじんまりとまとまった町、狭い路地に絶えることなく人が行き交い、驚くほど商いの小店が多かった。」

【黒潮】
日本列島の太平洋岸を西南から東北に向かって流れる暖流。一部は対馬暖流として九州西方に流れる。高温・高塩分で、黒ずんで見える。日本海流。

*さてどのようにして銚子とつながっていったのでしょうか。

後半へ続きます。