醤油が結ぶ縁-銚子市と湯浅町の接点とは-後半

醤油の発祥の地「和歌山県和歌山市湯浅町」と「千葉県銚子市」との接点を追いかける。
その後半です。

「湯浅醬油は、紀州藩の保護のもとに栄えた歴史を持っている。
「お仕入醤油屋」の標札を掲げていた。運送船は丸にキの字の旗を掲げて御用船同様の権限もあったし金融も受けることができた」
「明治維新でこの全面保護は消滅したが、1904年の日露戦争(明治37年)以降は衰えていった。品質・数量ともに関東に奪われていったのである」

【黒潮がつないだえにし(縁)】

「湯浅の町の顕国神社の鳥居前の大手洗鉢には「在関東上総国」と彫ってある。日付は江戸時代中期・寛延元年(1748年)である」
「また隣の広川町の広八幡社境内には、遠く銚子外川浦を開いた漁民棟梁「崎山治郎右衛門」の寄進による手洗鉢があり、供養塔が建ち両方に東国の地名が彫られている」
この狭い地域をのがれて人々は房総漁場へ出ていき、帰ってきては故郷の神社に加護を祈っていたのです。

「銚子に残る宝暦4年(1754年)の記録によると、外川浦網方225名のうち、紀州出身者は9割強の205名であった、内湯浅村46名、広村81名でした。この一帯が銚子の故地といわれる所以です」
銚子市内にも明治36年建立の「紀国人移住碑」があります。

*広村と湯浅の広川を挟んだ一つながりの湾の浜には「安政の堤防」があります。(今は広村海岸と呼ばれている)
ヤマサ濱口家7代目の悟陵が津波で壊滅した故郷の村のために、私財を投じて建設したものです。
濱口悟陵については別に記事として書く予定です。

【湯浅町の気候】

このあたりの景色は、遠くに苅藻島、鷹島が見える、さざなみの寄る浜はおだやかで美しい浜であるそうです。一方銚子は太平洋にその突端を出している地形からも想像できますが、激しい波が打ち寄せて、同じ海岸沿いですが相当違います。
銚子は天候が荒れると「雨が横から降ってきます」、それほど強風が吹きます。

湯浅・広川から来た人たちにとって東国の浜はどのように見えたのか。
故郷の浜辺はどれほどいとおしく思いだされたのでしょうか。

【醤油の道とは】

醤油の道とは、太古からあった魚醤の道がその最初であったのではないでしょうか。
それが証拠に日本の各地域にそれを示す食べ物が残っています。
秋田の塩汁(しょつつる)、輪島の魚汁(いしる)、ここ銚子対岸の波崎一帯には、鰯(いわし)と大根の漬物である塩辛こうこです。

「秋田の塩汁(しょつつる)」
調味料の一種。イワシ・ハタハタの類を生のまま瓶に入れ塩漬けにして貯蔵し、日を経て自然に滲み出した上水をこしたもの。

「輪島の魚汁」
石川県の奥能登で作られる魚醤。魚介類に食塩を加えて漬け込み、1年以上かけて発酵ならびに熟成させた浸出液である。古語で魚を「いお」「い」といい、魚の汁が転訛して「いおしる」から、いしるとなったとされる。

「塩辛こうこ」
鰯(いわし)と大根の漬物。
*塩辛とは、イカ・カニや魚などの肉・卵または腸(はらわた)などを塩漬けにしたもの。  出典:広辞苑第三版より

けれどもやがて穀醤(こくしょう)が根付いていって、それは米と魚をつなぐ得難いものだった。
「穀醤(こくしょう)」
大豆などの穀類を原料とする発酵調味料。東アジア・東南アジア各国に存在する。日本の醤油・味噌がこれに該当する。
*出典:ウイキペディア

【感想】

銚子が魚はもちろん廻米と呼ばれる東北からのコメを扱っていましたので、二つが合流する中継点であったわけで、そこが面白いと思いました。
銚子は利根川を上って江戸にそれらの物資を運んでいたので、「醤油は米と魚とをつなぐ調味料」として繋がり広がって、それが「江戸前の味」を作り上げていったんですね。

醤油は塩分補給やうまみの添加の他に、魚肉の生ぐさみを消して芳香を添える役割を持っていたので、まさにうってつけでした。

【うまみとは?

経験値にもとづく「うまみ」は科学的に解明され、「うまみ成分」となった。
うま味成分は1955年にヤマサ研究所の国中晃氏が発見しました。
ヤマサ醤油の国中が醤油醸造で培った微生物に関する豊富な経験と知識を駆使して発見した技術です、それは「酵素の働きによって核酸を分解してうまみ成分を作る」というものでした。

それまでは経験値でしか測れなかったうまみを科学的に解明したのでした。
その後の食文化の発展に大きく寄与しました。
当時はこの技術を使って複合うま味調味料「ヤマサフレーブ」を発売し大きな話題になりました。
*ヤマサ醤油のホームページを参考にしました。

**こうして醤油の話を書いていると、刺身・寿司などの初ガツオやマグロのトロが食べたくなりました。醤油なくしてこれらの料理は考えられません。

【間断なく流れる潮】

少し話は脱線しました、本題に戻ります。
「関東での濃口醬油の誕生は、その同じ土地でとれる豊富な魚群が導き出したともいえるのではないだろうか」とこの作者は言います。

黒潮は時を遡れば、魚醤の生きているフィリピンの岸から中国の岸を洗いながら、日本へもいろんなものを流してきます。人の流れも例外ではありませんでした。

広川を挟んで湯浅町と広川町は分かれる。
広川町も湯浅町に似た浜であり開放的な集落でした。湯浅とともに18世紀初頭多くの漁民が集団で関東漁場の開拓に乗り出し移住していったのです。

新しい商いに夢を描いていた醸造人たちもこの地を後にして、東国の銚子に渡っていったのでした。
間断なく流れ続ける「潮の流れ」によって。

*最後までお読みいただきありがとうございました。
*「醤油屋ばなし・海人がたり」常世田令子著 崙書房刊より引用・参考にしました。