旅(人生)の途中で出会った女性「カタ」
「長谷川賢子(カタ)」
詩と歌で有名になったヒロイン。鼻筋の通った美しい少女。
夢二は海が好きだった言います。また旅を欲していた時期でした。
明治43年8月、夢二は銚子町海鹿島を訪れる。
離婚していた他万喜とともに海鹿島の宮下という宿に泊まった。
その隣にあった家には美人姉妹がいて‥。
夢二は妹カタに心をひかれロマンスが始まった。
宿を出ると砂浜には月見草が一面に咲いていた。
そのあと彼女から夢二に手紙が来て東京へ回送された。
明治44年夏、銚子犬吠埼で長谷川賢子(カタコ)と会うつもりで向かうも‥。
この時すでに賢子は結婚して遠く鹿児島の地に去っていた。
*明治45年6月、「宵待草」が発表される。
*大正7年9月、多(おおの)忠亮作曲の「宵待草」が全国に流布。
夢二が他万喜との愛憎を繰り返している時。夢二は旅を指向していた。
千葉の銚子への旅は「鮮烈な恋物語」をのこしました。
家族で銚子にいた少女「長谷川賢子」が夢二と出会う。
当時すでに流行作家であった彼との逢引きはうわさになり、カタの父が心配し「夢二の思い」はかなえられることはなかった。
旅の途中でのすれ違いが生んだ「恋」は偶然がつくったもの?。
カタとの出会いは「水のように淡いもの」になりました。
海岸での出会いはロマンあふれる有名な詩「宵待草」を生んだ。
最後に思ったこと
当時の彼の感性は特別であり孤独なもの。
その作品は抒情的すぎるとか世紀末芸術の亜流などと批判を受けた。
彼は有名になることで失うものがあることをしった。
周りの人がみる目は以前とは違ってきます。
遠く離れた旅先の一時の恋愛でしたが、「孤独」「哀しみ」から解き放されることはなかった。
その哀しみや彼の自在さは、時代をこえて彼の作品の中に生き続けている。
かれは“浮世絵系画家が幅をきかせ芸術をカフェーで語る”・そんな文化を憂いて、
「ほんとうに人間として人間の悲しみを知る絵かきが出てきてもいい」と思っていたという。
明治維新から始まった西欧風の来訪、産業近代化の波が打ち寄せる中、昭和に入ると軍国主義が忍び寄ってくる。
そんな自由さと暗さが交錯する時代、
大正時代“ほんのしばらく咲いていたひ弱く淡いもの”であった「大正デモクラシー」と「自由さ」が、現代になって育った花を咲かせている。
そう考えるとロマンがありますね。
【彼の描いたテーマを推測】
一見すると“ひ弱い”けれど、美しく強い存在で生命を宿す。
そんな「女性像」を愛した。それは時代を越えていくもの。
夢二の絵は「女性の美」を通して「人間の強さや哀しさ」を現代に伝えている。
そこには「表現の自由」も含まれていると思いました。
今回は「なぜ女性像が支持されたのか?人間の悲哀の奥にある聖地を求めて」を書いてみました。
みなさんはどう思いましたか?
*「愛と悲しみの詩人画家竹久夢二」株式会社学習研究者刊、「竹久夢二抄」尾崎左永子著 平凡社刊、「待てど暮らせど来ぬひとを」近藤富枝著(株)講談社刊、を参考にしました。
*最後までお読みいただきありがとうございました。