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高村光太郎と智恵子-3-智恵子抄の出版を拒んだ

「高村光太郎と智恵子」その3。

光太郎は『智恵子抄』の出版を拒んでいた。



『智恵子抄』が出版されたのは、昭和16年8月のことで昭和13年に智恵子が亡くなってから3年後のことでした。

昭和13年、高村光太郎は智恵子をなくし失意のどん底にいました。

発行所「龍星閣」を経営していた主人の澤田は、以前より光太郎と知り合いであり尊敬もしていました。澤田は過去に智恵子夫人をうたったものを集めておきたいと思っていて、高村光太郎を訪ねます。しかし光太郎に「とても苦しい。いまは集めることはかなわない」と断られてしまいます。

それでも澤田は諦めきれませんでした。
なぜなら
「この男女(光太郎と智恵子)の愛情が煉獄状の火の中にあるのをかんじとったのだ」
「この男女の純愛こそがあらゆる男女のどん底における救いになると思ったのだ」
「世界はまだこの愛の形を知らなかった」
という理由からでした。

澤田は、数か月かけて夫人に関する資料をまとめました。光太郎にその資料を持っていきますが、考えておくといったまま2年たっても何の返事もありませんでした。なんども澤田が光太郎をたずねたことで、智恵子が亡くなってから3年後に出すことになったのでした。

のち『智恵子抄』は、たちまち人気となりました。戦後合わせて40刷り、その当時38万部は売れたという。

澤田は光太郎に印税をとってくれと言って持っていくが、光太郎は決して受け取らなかった。ポストに入れて帰ってくることもあったという。

高村光太郎は、智恵子を売り物にしたくないという純粋な愛情を持ち続けていた。
その気持ちは、出版する前も後も変わることはなかった。

またその本に書かれている文章を変えることも許さなかったという。

【煉獄】天国と地獄の間。 出典:広辞苑第三版

*1957年7月号、「婦人朝日」より引用・参考にしました。