国木田独歩の出生の秘密とは-ちばらぎ銚子

国木田独歩は明治4年(1871年)銚子市で生まれた。

父は「国木田専八」、母は「淡路まん」である。

専八は中国筋の龍野藩(たつのはん)の藩士で、1868年(明治元年)藩船の神龍丸で江戸に向かう途中に下田沖で暴風に会い、銚子の黒生沖まで流されて救助される。

専八は、飯沼観音の門前にあった『吉野屋旅館』で療養することになる。
そこで知り合ったのが旅館で手伝いをしていた淡路まんでした。
二人の間に生まれたのが、亀吉、のちに哲夫、「国木田独歩」である。

このとき専八は郷里(龍野)に妻子がいた。
「とく」という妻で、子供は男が3人いました。

母が亡くなった後、専八は上京し下谷御徒町の龍野藩脇坂侯旧藩邸内に住み、銚子からまんと亀吉(独歩)を呼び寄せます。

その後1875年司法省に出仕した専八は、山口裁判所に奉職したため一家で山口町に移転する。

専八は「とく」と離婚し「まん」と結婚した。

1876年(明治9年)に「とく」と離婚、1878年(明治11年)に「まん」と結婚しています。

その後専八は、今でいう中国地方各地を転勤したため、独歩は幼少年期を中国筋で過ごしました。

この「とく」に離婚の話を切り出した時、「まん」を入籍する便法として使われたのではないかと言われているのが、専八の本籍である龍野町役場の専八戸籍簿の『独歩の欄』に書かれていた事柄です。

書かれていた内容は、権次郎という人間が登場し、『独歩は権次郎とまんの長男として生まれたが、夫権次郎が死亡したので、母のまんが連れ子として、専八のもとにいった』ということでした。

専八は戸籍の内容をつくった?

しかしこの本の作者はこういいます。
この戸籍は専八が作ったものではないかと、権次郎は本当に存在していたのか?と。

なぜなら専八が銚子に漂着したのが1868年で、それから間もなく「まん」と出会い結婚の約束をしたのに、この戸籍によると1870年に「まん」に新しい「権次郎」なる愛人ができて、翌1871年に「まん」は権次郎の子を産み落として亀吉(独歩)と命名したとなっているからです。
しかも戸籍によると、その後権次郎はいい塩梅に死んでいる、それも不自然だと。

つまり専八は「とく」に対して『独歩は「まん」の前夫である権次郎との間に出来た子』ということを強調したかったために、戸籍の内容をつくったのではないかという事です。
明治の初期で法律もそんなにうるさくなかったであろうし、専八は法律に強かった。

独歩の出生の秘密

ここまで専八がしたのは「とく」に対して別れたいと話を切り出すときに、『銚子の吉野屋旅館で療養中に女ができ、子供までできてしまった。だから別れてくれ』というよりは、『夫に死なれたまんという女が、こどもを連れて上京してきた。御徒町にも訪ねてきたので、少しばかりの給金を渡し、炊事や洗濯を手伝ってもらっていた。その女と一緒になるので、別れてくれ』と言ったほうが、「とく」との話が紛糾しないのではないかと考えたからでした。

単刀直入に言えば、専八は妻「とく」に真実を隠したかったという事です。

この本「銚子と文学」は、独歩の戸籍の届け出のおかしな点や龍野町役場の戸籍簿、また他の作家の書いた独歩の記事など丁寧に調べて、この説の必然性を論理的に説明しています。

「旅先(銚子)での専八とまんの一夜妻から始まる話」が、独歩の出生の秘密を作り出したともいえそうです。

こういう説が生まれたのは、銚子市の戸籍簿が昭和20年の空襲で戸籍簿が焼失し、調べようがないことも関係しているとのこと。

*国木田独歩の碑は、銚子電鉄の海鹿島駅を降りて北に向かい歩いて5分程度のところにあります。
この文学碑のあるあたりは、小高くなっていて、父、専八が遭難して漂着した黒生の浜が望める場所です。独歩の詩碑を作るにあたって、独歩ゆかりの地としてこの海鹿島の台地が選ばれたそうです。

【龍野藩】
龍野藩は播磨郡龍野周辺を領有していた。5万3千石。
龍野は城下町の面影から『播磨の小京都』と呼ばれていた。
(今は合併して兵庫県南西に位置する『たつの市』である)
出典:ウィキペディアより

【飯沼観音】
本尊十一面観音は飯沼観音として知られ、江戸時代から参拝客が絶えなかった名刹。
銚子の繁華街は飯沼観音を中心にできていた。

*「銚子と文学」岡見晨明著(おかみとよはる)
東京文献センター刊より引用・参考にしました。
*銚子見聞録 銚子市観光協会刊 を参考にしました。