渋沢栄一がパリ万博で飲んだコーヒーとは?-コーヒーの明治史前期

日本でブラジル産コーヒーの恩恵を受けた「カフェー・パウリスタ」

日本での喫茶店の前身になるお店、1911年銀座に「カフェ―・パウリスタ」が開店した。(カフェ―・パウリスタは水野が大隈重信の助力のもと設立した)

銀座の「カフェ―・パウリスタ」は、後年コーヒーが広がるもとになったお店でした。
このお店は“コーヒーの役割”を変えた。
それまで料理の脇役やアルコール類に対しては2番手の飲み物だったのに、このパウリスタはコーヒーを主役にしたのだった。
“コーヒー1杯”だけでもお店で飲むことが出来た。これは画期的な事でした。
しかも“学生にも手の届く価格”でお客様に提供していた。
(コーヒーはストレートコーヒー、メニューにはドーナツ〈5銭〉もあったという)

何と「カフェ―・ブランタン」のコーヒーが1杯あたり30銭の時に、「カフェ―・パウリスタ」は5銭で提供していた。その価格差は歴然でした。
ではなぜパウリスタはブランタンの6分の1の価格で提供できたのか?
それはカフェ―・パウリスタが(前述したように)水野がブラジルのサンパウロ州から受け取っていた無料のコーヒーを使っていたからでした。

1912年(大正元年)から1923年(大正12年)まで合計864トン(年平均70.5トン)のコーヒーを受け取っていたのです。受け取った量は、日本全体のコーヒー消費量の80%という凄い比率を占めていた。(1912年大正元年データ)

これがコーヒー飲料の習慣を日本の大衆に浸透させるキッカケになった。

銀座は大手の新聞社やが外国の勝者があって文豪や婦人団体のメンバーも通っていたという。
カフェ―・パウリスタの銀座店はモダンな場所で最新文化を育てていた。そこでは小説の構想や女性解放についての話などが行われていたという。

しかし1923年(大正12年)にブラジル・サンパウロ州によるコーヒーの無償提供サービスが終了したことで、カフェ―・パウリスタでは安く出来なくなった。

水野は移民政策を行いました。ブラジルのコーヒー産業の発展に大きな貢献をしたそうです。
そして「ブラジルのコーヒー無償提供」があっての日本国内のコーヒーの需要拡大でした。
感謝すべきは、そのブラジルの移民政策でブラジルへ渡った移民達です。
彼らの「厳しい環境に負けない勤勉な労働」があっての無償提供でした。

当時の文献における【カフェ―とカフェの違い】
「カフェ―」は後年のカフェとは違う。「カフェー」は大正から昭和には酒を出す店に変わっていったので、後年のカフェと分ける意味あいで使用しているという。

*ここまでお疲れ様でした。
最後・次ページは、「渋沢栄一のコーヒーについての記述」です。