渋沢栄一がパリ万博で飲んだコーヒーとは?-コーヒーの明治史前期

コーヒーは当時の文人たちに飲まれていた

当時の世界状況はナショナリズムが日本国内にも芽生え始めたころの、1908年自由主義の文学者や芸術家の活動が活発化した。

その中で有名なのが1908年に結成された「パンの会」だった。
この会は谷崎潤一郎や高村光太郎、北原白秋らが中心になってつくられた会だった。
高級店カフェ―・ブランタンに集うようになった。一般人は立ち入りがたかったという。

彼らにとってコーヒーはヨーロッパの文化を日本にいながら味わえるという貴重な飲み物で、さぞかし遠いヨーロッパに対して色々な想像を搔き立てたのではないだろうか。
そしてこの会は後の日本の芸術や文学の発展に大きな影響を与えたといいます。

そしてこの1908年(明治41年)は日本のコーヒーの歴史に刻まれるべき出来事が起きました。

日本からブラジル・サンパウロ州への移民

皇国殖民会社社長「水野」は、農民のサンパウロ州への移民を計画しました。
1908年神戸港から移民船「笠戸丸」をブラジルのサントス港に向けて出港させたのでした。
沖縄・鹿児島・熊本の貧しい農民たちなど793名が乗船していた。

長い船旅の後、農民たちは世界最大級のコーヒーの生産国ブラジルに降り立った。
移民たちは大きな夢を持ってサンパウロ州に降り立ったのであったが、日系移民に対しての環境は厳しかった。
厳しい自然環境と人種差別などと格闘しなければいけなかった。
しかし彼らの“誠実な態度と勤勉さ”はやがてブラジル社会に受け入れられ、コーヒー産業の発展に大きく寄与した。

水野の移民計画の実行は、ブラジル労働力不足に寄与しました。
サンパウロ州は移民移動の仕事に対して水野に「コーヒー豆の無償提供」を行います。

サンパウロ側は日本を新たな市場として開拓したいという想いがありました。
一方日本側は受けることで移民たちの経済支援になると考えました。両者の利害が一致したのでした。 (無償提供は12年に及びました)

ブラジル珈琲アラビカ種
ブラジル珈琲アラビカ種

当時のブラジルのコーヒー産業

1870年代は世界的なコーヒーブームでした。
主要なコーヒー生産地であったブラジルにも大きな変化が起きていた。
セイロン・アジアのコーヒー生産地がさび病の蔓延で大きな打撃を受けていたため、ブラジルのコーヒーに対しての需要が多くなり、増産することになった。

アメリカの需要も上がっていた時期だったので、ブラジル政府もコーヒー農園における労働者を確保する必要に迫られた。
そこで「海外からの移民政策」を進めていた。
特にサンパウロ州は栽培に適した高原地帯があり、輸送に便利な港へアクセスできたので、この時期コーヒー生産の伸びはすごかった。

*日本でもコーヒー文化が本格的に始まりました。