ここから後半です。
梧陵は20代に政治家や知識人・蘭医など様々な人々との交流で多くの知識を得ました。
そして得た知識と事業で稼いだ資金を世の中のために使っていきます。
- 1 浜口梧陵の生涯の後半は、驚天動地の出来事が連続して起きる、その難題に立ち向かう話です。
- 2 1853年(嘉永6)「家業にいっそう励むも驚天動地の出来事が連続して起こる」
- 3 1854年(安政元)「津波被害の救済」
- 4 1856年(安政3)「関寛斎が銚子に開業」
- 5 1858年(安政5)「銚子でコレラ防疫にあたる」
- 6 1860年、幕府は鎖国という国の基本方針を転換、海外渡航を進め始めた
- 7 1864年(元治元年)「ヤマサが最上醤油の称号を得る」
- 8 1870年(明治3)「家業を八代目梧荘に譲る」
- 9 1881年(明治14)「銚子汽船株式会社を設立する」
- 10 1885年(明治18)欧米視察・世界を回る旅に出かけた、「ニューヨークにて亡くなる」
- 11 1897年(明治30)「銚子に記念碑建立」
- 12 浜口梧陵の生涯を読んでみて感じたこと
浜口梧陵の生涯の後半は、驚天動地の出来事が連続して起きる、その難題に立ち向かう話です。
梧陵はヤマサ7代目儀兵衛を継ぎます。
そのころ幕府をゆるがす大事件が起きます。
時代は大きなうねりの中、安政地震によって郷里・広村が津波に襲われます。
江戸を中心にコレラが蔓延して人々を不安に陥れます。
梧陵はこの国の将来を憂うとともに郷土(広村)の復興、銚子の防疫という大きな課題にも直面することになりました。
1853年(嘉永6)「家業にいっそう励むも驚天動地の出来事が連続して起こる」
ヤマサの第七代目儀兵衛を名乗る。家督を相続する。
(このとき梧陵はまだ海外渡航の夢は果たせていません)
銚子に向かう途中江戸で「ペリー来航」という驚天動地の出来事を知り、三宅艮斎を通じて情報を収集します。
そして独自の開国論も持ち始めました。
開国に当たって「どうすればこの国の主権を保ちつつ改革をするべきなのか」方策を探りたいと考え始めたのです。
1854年(安政元)「津波被害の救済」
安政大地震が発生し、津波が広村に襲来。梧陵は「稲むらの火」を掲げ人々を救難しました。
『稲むらの火』
稲むらの火は昭和12年から10年間、小学国語読本(5年生用)に載っていました。
【あらすじ】
安政元年(1854年)11月4日に発生した「南海大津波」の折、いち早く津波の発生を予知した五兵衛は、高台にあった稲むら(注:刈った稲または稲藁を積み重ねたもの)に火をつけ危険を村民に知らせ、鎮守の八幡神社に向かわせて多くの村人を救ったという話です。
人間愛と郷土愛あふれる内容です。
*五兵衛のモデルが梧陵です。このとき34歳でした。
安政地震(M8.4・震源地遠州灘)の被害は梧陵の本によると、広村の家屋被害339件死者は36名、村は当時約300件余りだから、その惨状は村全体に及んだ。
梧陵は村に対して大堤防の建設や橋のかけ直し、広村の人々に対する家・資金・物資など無償の援助などをしました。
広村はそののち災害を乗り越えて復興を成し遂げました。
*堤防建設には梧陵の寄付4600両が使われたそうです。
1856年(安政3)「関寛斎が銚子に開業」
国づくりの基礎は人づくりにあると考えていた梧陵は、若き医師の育成には熱心で支援をしていた。
【関寛斎】
1830~1912年、今の千葉県東金市に生まれる。順天堂で学んだ蘭医。(このブログ内でも記事を書いています、読んでみてください)
1858年(安政5)「銚子でコレラ防疫にあたる」
江戸にてコレラ流行、銚子に蔓延するのを憂いた梧陵は、関寛斎を江戸に派遣して予防法や治療法を研究した。
関寛斎は江戸でコレラ対策を学び帰銚する。
これにより銚子の流行は大事には至らなかった。
*1858年(安政5)~1860年(万延1年)の流行は、国内で20万人以上の死亡者が出たという。
【コレラ】
コレラ菌による急性の伝染性感染症。激しい下痢と嘔吐(おうと)を引き起こす。
1860年、幕府は鎖国という国の基本方針を転換、海外渡航を進め始めた
「幕府の方針が変わり、正式な使節がアメリカに渡ることになり、咸臨丸の艦長であった勝海舟は、かつてより海外に出て知識を得たいと思っていた梧陵を和歌山にたずねて、この機会に海外に出ようと誘います。しかし梧陵は都合がつきませんでした。」
一説にはヤマサ醤油内の問題があったためと言われています。
1864年(元治元年)「ヤマサが最上醤油の称号を得る」
これによって市場での信用度が増すとともに、他の醤油会社よりも優位になりました。
【最上醤油とは】
江戸幕府より優れた品質の醤油として、「最上醤油」の称号を拝領、商標の右上にある「上」の由来となる。
出典:ウィキペディア
1870年(明治3)「家業を八代目梧荘に譲る」
梧壮は養子であったそうです。
1881年(明治14)「銚子汽船株式会社を設立する」
利根水運をいかした事業によって銚子や利根川沿いの町々が潤いました。
1885年(明治18)欧米視察・世界を回る旅に出かけた、「ニューヨークにて亡くなる」
かつて梧陵が望んでいた海外の実情を知りたいという夢は、ようやくかなえられました。
しかしその途中にニューヨークで病によって亡くなりました。
死因はがんと言われています。享年66歳でした。
福沢諭吉、勝海舟らが横浜で会葬を営む。
和歌山では4000名あまりが参列して盛大な葬儀であったそうです。
墓地は有田郡広川町の安楽寺にあります。
1897年(明治30)「銚子に記念碑建立」
*銚子駅を降りて徒歩5分ほどのところに「浜口梧陵紀徳碑」があります。
梧陵は青年時代から「経世済民」の実践を志として生きてきた。
この思想は人も含めて万物は根元が同じであるとの考えから、他者の苦しみは自らの苦しみであり、それを癒そうとするのは自然であるという「陽明学」に基づくものである。
【陽明学(ようめいがく)】
中国、明の王陽明が唱えた儒学。出典:広辞苑第三版
知識と実践の一致(=知行合一(ちこうごういつ))を説いた。
浜口梧陵の生涯を読んでみて感じたこと
浜口梧陵は「世間に富商・豪商・侠商・神商と称され、多くの人々から品格・地位を備えた上流の商人として尊敬された。」自分の住む故郷・地域のことをいつも考えていました。
銚子のコレラ防疫対策のために医師を派遣したり、津波を防ぐために防波堤を整備したり沢山の仕事をしました。
明治になって各地で産業が発展するにあたり、有志と協力して汽船会社を作り、銚子や利根川べりの町々が栄えました。
事業を継続するだけでも大変なのに社会のためになることに尽力し援助する。
まさしく偉人という名前がふさわしいと思いました。
ほとんど「銚子人」といっていい梧陵は、誇れる経営者で人格者でした。
ユーモアも持ちあわせ色々なエピソードも残っています、調べれば調べるほど凄い人でした。
*「津波とたたかった人」戸石四郎著 新日本出版刊、
「浜口梧陵物語」戸石四郎著 多田屋株式会社刊を参考にしました。
出典:広辞苑第三版、ウィキペディア
上記記事は後半になります。
前半については下記の記事にて書いています。
よろしかったら読んでみてください。