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弘化年中の銚子

浜口梧陵の生涯-前半-銚子ヤマサ醤油家業-星雲の志を抱く仲間との出会い


今回ご紹介するのは、「浜口梧陵(ごりょう)」です。
ヤマサ醤油の第七代目社長・儀兵衛(ぎへえ)であり、紀州広村で津波が来た際に「稲むらの火」をかかげた人でも有名な偉人です。

*銚子駅を降りて駅前ロータリー右手交番のところを右へ進むと突き当りに双葉小学校があります。右へ曲がり銚子電鉄の線路を過ぎてすぐ左にその「浜口梧陵紀徳碑」をみることが出来ます。(歩いて5分ほどです)




浜口梧陵の生涯-前半は、彼の生きた時代背景と、銚子での醤油家業、星雲の志に燃える青年たちとの出会いを書きます。






浜口梧陵が生まれた時代


幕末は内外ともに激しく動く時代でした。世界的な植民地拡大の波に乗って外国船が日本の沿岸に現れて幕府の鎖国体制をゆるがしていました。1824年(文政7)には水戸で英国船の上陸騒ぎもありました。幕府が「異国船打払令」を出したのは1825年のことで梧陵が5歳の時です。

*同年「打ち払い」の任を負った「高崎藩」は、銚子君ヶ浜で砲台13台を築き大砲の試射をした。その後も銚子川口などにも砲台が作られました。

【高崎藩】
上野国群馬郡(現在の群馬県高崎市)周辺を領した藩。(木曽街道が通る)交通の要所であり有名な譜代大名が封じられた。飛び領地として銚子に5000石ほどあり飯沼陣屋を設置して知行した。
出典:ウィキペディア




日本に内憂外患が迫る天下大乱の様相の中、星雲の志に心燃える青年たちが新しい知識を求めようと模索していました。内政では商品経済の発展により浜口家のように商人層が力を増してきました。武士階級は窮乏して、そのしわ寄せは農民などにも及びました。災害も重なり一揆も広がりました。

思想の点では隣国である清国(今の中国)が阿片戦争(1840~42年)でイギリスに敗れて南京条約を締結、上海など5港を開港して香港をイギリスに割譲しました。清国の規範や支え、文化が西欧によって崩された衝撃は、当時の幕府や知識人にとって大きいものでした。




この天下大乱の時代、浜口梧陵は、醤油醸造業(ヤマサ醤油)の当主としての企業人、和歌山県政治活動(勝海舟、大熊重信)、文化人(福沢諭吉、緒方洪庵)や医者(三宅良斎、関寛斎)との交流、慈善活動など多岐に及びたくさんの仕事を残しています。




*「銚子とのかかわりを中心」に浜口梧陵の生涯を追いかけてみました



1820年(文政3)「梧陵、広村にて生まれる」


紀州有田郡広村(現在の和歌山県有田郡広川町)の豪族濱口家の分家三代目七右衛門の長男として生まれる。二歳の時に父を亡くし、祖父灌圃(かんぽ)に育てられる。17歳の時に灌圃死去。
浜口家は元禄年間(1688~1704年)に銚子で醤油醸造業を始めた。江戸の深川にも出店していた。京保・宝歴年間(1716~1764年)の頃には江戸第一の醸造家として有名であった(現在のヤマサ醤油)
*和歌山県有田郡広川町は和歌山県北西部に位置し大阪府よりである。徳島県徳島市と面を合わせる位置にある。







1831年(天保2)「銚子に赴き家業を継ぐ」


本家六代目儀兵衛に跡継ぎがいなかったため、江戸経由銚子にいたり家業を就く。
銚子では小僧と同様の終業を続け、「若様の丁稚奉公」と呼ばれていた。

「工場では前垂れにゲタばきで使用人たちと一緒に働き、食事も同じものを食べました。上役の番頭さんが食べ終わると、自分が食事途中でも箸をおいて、番頭さんに従って仕事についたといいます」働きながら儒学を熱心に勉強して「世の中を治め、貧しい民衆を救う」という精神を学びました。



1841年(天保12)「三宅良斎との出会い」


順天堂から来た一流の蘭医、三宅良斎(ごんさい)の銚子開業で親交を深めます。良斎のあとがまとして来たのが関寛斎です。良斎は江戸の蘭学者の仲間が多く、幕府や海外の知識にも詳しい人でした。21歳のころ梧陵はたくさんの知識を艮斎から学びました。この出会いは梧陵の人間形成に大きく影響した。
(診療所があったのは今の大阪屋薬局(銚子市中央町)の裏手あたりだったという事です)
*そのころの銚子は、当時「世界最大の都市」であった江戸についで「関東第二の人口と経済力をもつ都市」として栄えていました。



1850年(嘉永3)「佐久間象山に教えをこう」


佐久間象山の門下生となり、27歳だった勝海舟と知り合い終生の友となる。多くの蘭学者も養成して近代医学の基礎作りにも貢献した。 また福沢諭吉との出会いは人材育成・教育改革に一層拍車をかけた。

様々な政治家や知識人との交流で内政情報や海外事情、科学知識などを吸収しました。このころから梧陵は自身の見識を広げるとともに活動も変化していきました。勉強して得た知識は、事業で稼いだ資金を使って世の中に貢献していきました。




【佐久間象山】
1811~1864年、。幕末の勤皇家で一流の洋学者。信州松代藩士、蘭学・砲術に通じていた。

【勝海舟(勝安芳)】
1823~1899年、幕末・明治の政治家。幕臣だったが明治政府に頼まれて海軍大臣についた。幕府側代表として江戸城明渡しの任を果たし、江戸を兵火から救った。

【福沢諭吉】
1834~1901年、明治時代の思想家・教育家。豊前中津藩士出身、江戸に蘭学塾を開いた。「学問ノススメ」を書き、1万円札の肖像になった。
出典:広辞苑第三版

*「津波とたたかった人」戸石四郎著 新日本出版刊、
「浜口梧陵物語」戸石四郎著 多田屋株式会社刊を参考にしました。
出典:広辞苑第三版、ウィキペディア




ここまでで前半は終わりです。後半は、梧陵が「驚天動地の出来事」に立ち向かうお話です。