浜口梧陵(ヤマサ醤油7代目)-安政5年-銚子で「コレラ防疫」をした偉人

【浜口梧陵(はまぐちごりょう)】

1820年(文政3)~1885年(明治18)
紀伊国広村(和歌山県広川町)に生まれ、ヤマサ7代目浜口儀兵衛(号梧陵)となる。
1854年南海大地震の時におきた大津波に冷静に対応して、「稲むらの火」を燃やして多くの人命を救ったことでも有名。地方行政にも尽力した。

銚子にゆかりの深い「浜口梧陵」について調べてみました。

銚子でコレラ防疫

1858年(安政5)年、浜口梧陵が39歳の時、銚子で「コレラ防疫」にあたったことを知っていましたか?

浜口梧陵は医師の「関寛斎」とともにこの仕事をすすめました。
関寛斎は1856年に銚子に医院を開いた医師です。

梧陵は彼とともに銚子・佐倉・江戸を繋ぐ医療のネットワークを作り実行したのです。
今回はそのお話です。

当時ヤマサ7代目だった梧陵は40歳を目前に若かったのですが、銚子の有力者の一員でした。
銚子のまちの人々の生活や病気などにも気を配っていたのです。

この当時幕府は「世の中を治める仕組みはありましたが、今の役所のように人々の安全や病気に責任を持つ力はありませんした」。
幕府や藩の力も弱くなり有力な町(民間の経済人)の資金や能力が必要となっていました。

この安政(1854~1859)の時代にコレラが大流行し、江戸だけでも数万人が亡くなり人々を不安に陥れていました。
彼は銚子の人々の健康を心配して佐倉順天堂と連絡をとって、その出張診療所を開きました。
(当時銚子は江戸に次ぐ大きい都市でした)

【佐倉順天堂】

1843年(天保14年)蘭方医の佐藤泰然が佐倉(千葉県)に塾と病院を併設した。
現在の順天堂大学医学部です。

その後順天堂から「三宅艮斎(みやけごんさい)」という蘭医もきて開業しています。
(梧陵は艮斎から幕府や海外の知識を得た)

艮斎は、江戸にもどり種痘所(お玉が池=東大医学部の前身)という当時最新の施設を造りました。
その後任で来たのが若い蘭医「関寛斎」です。
梧陵は彼の人柄と能力を見込みました。

梧陵は銚子にコレラが広まるのを恐れてその予防のために関寛斎に頼んで、コレラを防ぐための手だてを得るための知識や薬品類などを手に入れました。

この時代はコレラ菌も発見されていないし薬品も不十分なころでした。
梧陵と寛斎の必死の努力によって銚子はコレラから逃れることが出来ました。
そして銚子以外の土地にも広がらないように努力しました。

【関寛斎】

1830年(天保元年)上総国山辺郡東中村(現在の千葉県東金市)に生まれる。
佐倉順天堂で学んだ蘭医。
長崎でオランダの海軍軍医ポンべの伝習所に入門、徳島藩主の侍医となる。
58歳の時には銚子犬吠に遊び、保養所・海水浴場の開設を進めています。

【コレラ】

急性激烈な伝染病。
コレラ菌が経口的に侵入し、小腸の上皮を侵すことによる。
発熱烈しく吐瀉し、米汁状の下痢を起こす。
重症のものは急に衰弱して、遂に死に至る。

【種痘所(しゅとうじょ)】

痘苗(痘瘡ワクチン)を人体に接種し、天然痘に対する免疫性を得させ、感染を予防する方法を行う場所。
*今でいう伝染病研究所のような施設。
出典:広辞苑第3版

種痘所への援助

梧陵は蘭医学と種痘所が将来世の中のために役立つことを考えて、種痘所のために700両を寄付して援助しました

彼が援助した種痘所は明治以降の日本の医療の中心となっていきました。

梧陵は医療という人の命を守る仕事について先を見据えた考えがありました。
体の不調はまず町の診療所を受診、重い病気は佐倉順天堂に連絡して治療を受ける、コレラの流行など大事には江戸の種痘所の力を借りる。

現代では当たり前ですが、医学のシステムが十分に機能していない時代に、「医療の施設をピラミッド型につなぐ」先進的な医療システムを実行していたのは凄いことです。

彼の優れた知識と、醤油で儲けたお金は世のため人のためになることに使われました。

利根水運をいかして町の振興に尽力

贅沢をすることもなく生活を慎み家庭や仕事も大切にしていました。
自分の住む故郷・地域のために何ができるのかを考えて行動していました

明治になり各地で産業が盛んになるにつれて、地元の有志とともに銚子の町の発展にもかかわります。
1881年(明治14)には利根水運をいかした銚子汽船株式会社を作りました。
これによって銚子周辺の町が潤いました。

人を引き付ける魅力

梧陵は、堅苦しいまじめ人間というだけでない人を引き付けるユーモアもありました。

ある年の冬、とくに寒い日、ご馳走をするからと村の若者を招いたときのことです。
「皆が喜んでうかがうと部屋は寒風が吹き込んでいるのに火鉢一つなくて、ご馳走は冷やしソウメンで氷まで入っていた。それを梧陵が先に澄ました顔で食べた」。
若いものは開いた口をそのままに、その冷たいソウメンを食べないわけにはいかなかったそうです。

自分の身を律して家を治め医療の発展のために貢献した偉人でした。
プライベートでは、どうやら「いたずら好き」でもあったようです。

*最後までお読みいただきありがとうございました。

*千葉・東総物語シリーズ「浜口梧陵物語」 戸石四郎著 多田屋(株)刊より引用・参考にしました。