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「榎本武揚」赤城駿介著-感想-徳川幕臣で新政府に謀反-明治の隠れた礎石といわれた人


非常にしっかりと調べられていて榎本武揚の人物像が浮き彫りになっていました。歴史物語として読みごたえのある本でした。
*「榎本武揚」赤城駿介著 成美堂出版刊 を読んだ感想になります。







簡単なあらすじ




榎本武揚-写真
榎本武揚-写真




榎本武揚は「元将軍付きの旗本榎本円兵衛武規の次男」として江戸御徒町に生まれ19歳「釜次郎」と呼ばれていた。1854年(安政1)ペリー来航した時代、開国を迫られ徳川が大政奉還する激動の時代でした。
父の円兵衛は科学的な頭脳がすぐれ幕府天文方をつとめ、伊能忠敬の測量などに加わっていた。蝦夷地へ巡回の話があった時には息子の釜次郎(榎本武揚)の同行を依頼するなど、蝦夷地への興味もありました。どれも徳川家に対する信奉でした。
そんな環境で育った釜次郎は徳川家に対しての忠誠心を育んでいた。
1855年幕府はオランダからの勧告で海軍を創設することになり海軍軍人養成所である「長崎海軍伝習所」を開所、幕臣や各藩から第1期と第2期で約200名が集められた。1856年武揚も入所します。
1858年には幕府に初登用、築地軍艦操練所教授に任命されます。
1866年オランダでは幕府の依頼で軍艦「開陽」が建造されていた。武揚も完成にたちあい、その半年後「開陽」は1867年に横浜に到着します。武揚は軍艦乗組頭取を命じられた。彼と「開陽」との縁の始まりでした。




榎本武揚は、「幼少のころから幕府につかえ下級武士であった父の教え」を守りそだちます。成長して世間が世界の列強の来航に驚く中、何かしなければいけないという想いが芽生えて、幕府の要職になる。




幕府統治の限界を感じた徳川慶喜が大政奉還をするなか、武揚の気持ちも変化が生まれる。薩摩・岩倉は徳川を1大名にするべく、天皇を巻き込んで策略を巡らせて徳川家の力を弱めることに政策をすすめていた。「慶喜追討令」をだすなど、彼らの徳川家に対する処遇に納得がいきませんでした。
しかし現実問題として、窮地に立たされた徳川家の将来をどこに見出すか、その問題が出てきた。

1868年彼は「開陽」を主艦とした幕艦隊と「彰義隊」や幕臣達をまとめあげて政府軍に抵抗します。彼の知識を総動員しての戦いでした。彼が目ざしたのは「蝦夷地」でした。そこに徳川中心の享和政府の樹立をしようと思っていたのです。しかし天は彼に味方しませんでした。自然災害や事故で「開陽」など艦隊を失います。
1869年彼の戦いは箱館で終わります。

1869年から1872年まで投獄され、出獄後に北海道開拓使に出仕。
1874年海軍中将となり対露北方領土問題処理のため特命全権公使を命じられます。この後も海外交渉や外務省で活躍しました。







感想




徳川家を信奉し軍艦に詳しく海軍にいた榎本武揚が歴史上の重要人物として現れてきたのは、彼の生い立ちからみると歴史の必然だったのかもしれません。
彼は戊辰戦争が始まるなか、幕府の存続のため、一身を投じて徳川の威信を守ろうと彰義隊で戦いに加わります。彼の対新政府軍あいての戦いの心情は胸に響くものであり、日本人の忠誠心について深く考える機会になりました。結果的には徳川への思いを一身に背負った。そこが彼の徳川幕臣・武士としての「引き際」とわきまえた。




「勝てば官軍」となった薩長同盟は、その勢力そのままに徳川幕府にたいして、すでに負けているかのようなひどい要求を向けてきます。徳川300年余りを生きてきた徳川家の関係者や幕臣達にとっては到底納得できるものではありませんでした。当然信奉者であればその気持ちを抑えることが出来なかった。




慶喜が明確に自分の意志を表明しなかったのも、その家臣たちや全国にまたがる徳川家を信奉する者たちに対しての影響(混乱)を考えた末の、身の処し方だったのかもしれません。もしそう考えたのであれば徳川慶喜が国の存続を第一に静かに歴史の表舞台から去っていくのも、国の未来を見据えた徳川将軍らしい見事な引き際だったと思います。薩長同盟の力ででなく自分の意志で去ったことがとても心に響きます。




その中で徳川の無念をもつ徳川旧幕軍が立ち上がり、その持ちうる戦力を使って謀反を起こした。
その時歴史の表舞台に現れたのが「榎本武揚」でした。新政府軍の海軍の力が弱かったこと、蝦夷地に対しての知識があった。歴史が彼の登場を後押ししていました。
彼が冷静な人物であったことや世界の情勢にも明るかったことを考えると途中で意見を変えて、途中で脱会することも可能だったのかもしれません。しかし彼は最後まで新政府と闘いつづけた。
合理的で利口なやり方ではありませんでした。しかし徳川家の色々な重荷を背負っていた。彼が望んでいたかどうかはわかりませんが。




最後は自分の命に代えて「忠誠」「武士の心」を示したかったのだと思いました。それが徳川幕臣のやるべきことであるかのごとく。




そして時代が変わるともに国の形が大きく変わっていきます。
外国の脅威を目にすることになった。特に官は人材を求めていた。彼はそれに合致する大局観を持ち合わせていたのではないでしょうか。国を守る仕事が「彼の忠誠心」に火をつけたのかもしれません。彼はその能力を交渉に使います、そして大臣という要職につく。それを良しとしていたのかはわかりません。
一度は失くした命、榎本武揚にとってはそれを拒否する理由もなかった。




榎本武揚は箱館戦争で敗戦した後明治政府に仕えることになり、その転身から日本史的にはいさぎよしとされず、一般には知られることがありませんでした。この物語は史実に基づいて榎本武揚の生い立ちから、その人生を良く書いていると思いました。




じんわりと心に残るそんな歴史小説でした。
最後まで読んでいただきありがとうございました。




*墨田区堤通には、榎本武揚の銅像が建っています。
「銅造榎本武揚像」墨田区登録有形文化財になっています。