江戸時代前期の農業とは?-椿の海干拓の時代、百姓の力について調べた

江戸時代前期の村社会とは?

江戸時代の村は「村落共同体」であり、それが地域社会の中心でした。
江戸時代における全国の村の数は元禄10(1697)に6万3276人。
18~19世紀の平均的な村は、村高(村全体の石高)が400~500石、耕地面積は50町前後、村の人口はおよそ400人でした。
現在の市町村と比べてずっと小規模なもので、人々の結びつきも強いものでした。農作業から冠婚葬祭にいたるまでの、日常生活のすべてにおいて助け合う。お互いに決まりを決めて村をまとめていました。
*1石=10斗(1斗は10升、1升瓶が約1.8リットル入りですので、1石は180リットルで重さは約150kg)
1町は1ヘクタール(100平方メートル)、1町の土地からはおよそ10石くらいのお米が収穫可能だった。

江戸時代前期の村を語る上で重要なポイント

耕地が増え農業が発展した

17世紀は人口と耕地面積が急増した

1600年ごろの全国総人口は約1500~1600万人、耕地面積は約163万5000町と推計。
1721年(享保6)には人口が約3128万人、耕地面積は約297万町へと増加。
おもに17世紀を契機に人口は約2倍、耕地面積は約1.8倍になりました。

百姓の家の成立:生活単位の成立が生きがいの質をあげた。

現代の「家=家族」の概念とは違っていました。
江戸時代の「家」は共同で生業を営む生産の単位。家は家名・家業(農業)・家産(財産)がワンセットになっている生活の単位。家は過去から未来へ永続するものと観念された。
先祖からの家産を現在から子孫へと守り伝えること”が多くの百姓の生きがいになっていました。

17世紀における農業生産力の発展の基礎となったこと

水利灌漑、治水工事が進展。
江戸幕府は大河川の治水工事を進めた、多くの溜池が築造されて全国で耕地が開発(開拓)された。
牛馬の飼育と*肥の使用が一般的になった。
棉の栽培が普及、ライフスタイルの変化

多肥多労働投下、集約化、深耕、土地改良などは小農農法の確立に繋がる。

・気候が温暖化。

16世紀ごろまでは自然災害など悪条件が重なり、生産の増大は困難をきわめていた。17世紀後半になって気候が温暖化したのも要因。

各地に新田村が生まれ耕地が飛躍的に増大。それにより人口も増え農業が発展した。

兵農分離と商農分離による村の変化

統一政権による兵農分離以降、村の侍にも大きな変化がありました。耕作者と領主との間で侍や地主が得ていた中間所得分(小作料など)は減っていって、侍は次第に百姓化していきました。

庄屋だけがもつ特権や不正が糾弾されて、小百姓たちの話し合いや合意にもとづいた村運営が始まりました。村の商人もまた城下町などに移住し商農分離が進みました。

それまでの“惣村”は、農業を主要な生業としつつも内部に非農業的人材をかかえていたのですが、侍が百姓化、商人が城下町などに移って行って村の領域や役割も明確になっていきました。

【惣村とは】中世後期頃から生まれた、村人たちが自治的に運営する村のこと。
年貢の徴収・納入を請け負い、固有の財産、掟を持つ、警察・司法権を行使、重要事項の決定など。

「検地帳」土地の管理が始まる

侍層の弱体化によって、土地の管理は小百姓の土地所持を保障するものへと変化していきました。

村内独自の土地・年貢関係帳簿が作成される点は戦国時代から続いてはいましたが、江戸時代には村帳簿の前提として土地所有者の根拠となる領主の改革による『検地帳』が出てきます

村は検地帳名請(なうけ)と家(百姓株式)の維持、存続を正当性の根拠とし、小百姓の土地所有権を保障する機能を強めていくのです。江戸時代の村は検地。検見などで領主に村の中まで調べられながらも検地帳を自らの権利を証明するものとして固有の秩序・慣行を作り上げて維持していました。

寺の住職の役割

江戸時代には寺請制度により、すべての庶民がいずれかの檀那(檀徒・檀家)となることが義務づけられていました。

寺院が「葬式仏教」化したといわれる反面、寺の住職が百姓間に起こる様々な問題の調停役となり、村・地域の平穏維持に重要な役割を果たすことも少なくありませんでした。
こうした住職の仲介「駆け込み寺」としての機能の他にも、「寺子屋」として住職は地域の師匠としての役割もありました。

『村請制村』とは

村請制村とは、独自の領域と住民を持ち、法(村掟・村定)を制定し、違反者には罰金を科す自治的行政組織でした。

村の運営は「名主(庄屋)」「組頭」「百姓代」などの村役人です。
名主は村役人の長であり村を運営していました。名主には経済力はもとより文化面での貢献や医学的な知識なども求められていました。
組頭(年寄)は名主の補佐役、百姓代は一般の百姓を代表しているもの。

庄屋(名主)は百姓身分に属し、村人たちを代表する存在であり、村の中で(村から離れていた)領主の意向を代弁する立場(代理人)であり、『村の重要な問題について領主に報告する義務』がありました。問題の解決を領主にゆだねようとする傾向が強くでてきます。

17世紀後半に特有の点として、この村方三役は所によっては未確立でした。
江戸時代の村役人制度が確率途上であり、惣百姓が主体となり村運営が行われている地域もありました。相互に助け合い決まりで規制して、家と村を維持していたのです。

次第に村方三役が確立していき現在の地方自治体制度への始まりの一歩となっていきました。

領主と村、公私をめぐるせめぎ合い

領主にとって年貢徴収は最重要な関心事であり、村人にとっては年貢は最大の負担でした。
年貢と村入用について仕法もできて村役人たちにも事務能力も求めれらました。

藩は財政確保のため、村の公私分離をしようとしますが、村はそれまでの独自の運営をしていたため、平和的に収まってはいませんでした。

百姓たちは自らの要求のために主体的に運動して訴訟を起こした。

百姓一揆という自己主張もありました。村役人を批判することもありました。
訴訟によって問題解決を図る場面もありました(この点は現代の訴訟を敬遠するのとは違っていました。)

江戸時代の訴訟(裁判制度)の特徴としては、“和談”があります。
制度の中に内済(和談)が組み込まれていました。
藩は訴訟の当事者間にしこりを残さないために、訴訟の審理中でも盛んに扱人(仲介者・百姓・町人などがなる)により内済を勧めました。

問題が複雑な場合には、理非の判定を明確に下さず、当事者間の関係修復を村方和合を最優先させる傾向があったのです。

小まとめ

村が武士などを抱えて「自分の身は自分で守る考え方」があたりまえだった戦国時代から、江戸幕府の「天下泰平の時代」になる。

「兵農分離」で武士が都市に移り住んで、地方は「村請制」が進み村単位での年貢諸役に。
農民は生業である“農業に注力する”ことで米の生産力もアップ。領主と農民の関係も変化して当事者同士の合意が必要とされました。

米が出回ることで城下町での商業が拡大して町人も増えました、その力も増していきます。
武士も生きるのが大変な時代に。農民も名主を通して領主などに異議申し立てが出来る社会になっていきました。農民の地位も次第に上がっていきました。

兵農分離、商農分離、村請制から始まった農村の変化は、社会構造を変えていきました

*日本人の代表的な行動特性、“狭い人間関係のなかでの評価には非常に敏感で、過剰なほどまわりに気を遣う”は、このような村社会から引き継がれているとのこと。
その一方で村単位でまとまったことでプラス面も多くありました。「村落共同体」として自治をすることで力を得ていきました。様々な問題に立ち向かい、改善・努力をして生活を豊かにしていきました。
自治運営するシステムができたことで領主に対しての主張もできるようになった
この点については地方自治のスタートを示しているという点で、とても興味深かったです。

江戸時代に百姓の力が日本の食を支え、発展をすすめ、社会を変えていったのですね。
農村から見る江戸時代前期は、とても面白いと思いました。

*「百姓の力 江戸時代から見える日本」渡辺尚志著 柏書房刊、NHK「3か月でマスターする江戸時代」を参考にしています。興味のある方は読んでみてください。