「銚子陣屋」跡が物語る歴史-1-弘化4年高崎藩銚子陣屋の政治と経済

江戸時代銚子に「陣屋」があったことをご存知でしょうか?

近世史用語辞典によれば、“陣屋とは旗本や郡代・代官らが支配地に設けた役所”。官舎である本陣、執務場所の役所、手代や属僚の長屋・小屋、 米蔵、牢屋などを含めた総称。任地の陣屋を本庁、江戸の役宅を支庁という。
(*近世史用語辞典、新人物往来社刊より引用)

※近年歴史の「陣屋」が出てきたドラマとしては、NHK大河「青天を衝け」 で描かれた「岡部陣屋」(埼玉県深谷市)があります。渋沢栄一が屈辱を味わった場所として登場しました。

江戸時代、銚子は高崎藩の管轄にあり、高崎藩銚子陣屋が置かれていました。

江戸時代最初、現在の銚子市域は香取郡6村と海上郡 35 村から成り、その土地の多くは幕府領や旗本知行地でした。その後、1709 年(宝永6)には上野高崎藩領に、そして 1717年(享保2)には幕府領となり、再び上野高崎藩領として幕末まで続きました。この所領の管轄のために飯沼には高崎藩の陣屋(銚子役所)が設置され、郡奉行などが勤務していました。

【高崎藩】上野国群馬郡(群馬県高崎市)の周辺と、飛地として銚子を領した。藩庁は高崎城で交通の要所であったために譜代大名に任せられた。

高崎藩銚子陣屋

旧陣屋の跡が残っているのは、現在の“陣屋町公園”です。
住所は銚子市陣屋町6-4。銚子電鉄の観音駅から北へ歩いて5~10分程度の場所にあります。

銚子市陣屋町公園-GoogleMapより
銚子市陣屋町公園-GoogleMapより

公園の北東角には「旧陣屋跡」が残ります。
*下記写真の「旧陣屋跡」碑 の土台として残る石は、敷地の一部を囲んでいた掘割りに使われていました。

旧陣屋跡-石碑-銚子市
旧陣屋跡-石碑-銚子市

公園内に陣屋についての説明板
左から「新町大手奉行屋敷」「(高崎藩)銚子陣屋地図」「陣屋位置図」です。

陣屋町公園-銚子陣屋案内
陣屋町公園-銚子陣屋案内

「高崎藩銚子陣屋」地図の詳細から

銚子陣屋地図-上半分
銚子陣屋地図-上半分

【高崎藩銚子陣屋の説明】
利根水運が江戸に通じるようになり日本海や東北各藩の物産が銚子を中継港として江戸に運送されるに至り、幕府は“親藩・高崎藩”を享保二年(1717)からこの地を統治に当たらせた。

以後、明治の廃藩置県までの150年間、銚子は高崎藩領として陣屋を設け郡奉行一人と、代官二名を主役として派遣させ、領内の年貢の徴収や領内の治安維持、 領民からの訴訟などの治にあたった。

高崎藩の職制では「 郡奉行は上士の末席出身で、郡村にかかわる一切の事務を総轄し、毎日役所に出勤して事務を取り扱い、配下に手附留役(下士)五名、米見(卒) 十名を従えていた。また、代官は中士または下士の出身で、郡奉行に付属して、一郷二名づつの受け持ちを定め、収租その他郷村百般の事務を取り扱う。」と高崎市史にある。

支配領地のことを「代官所」、執務を行う建物は「陣屋」という。上図は幕末の弘化四年(1847) 当時の陣屋の屋敷の配置が描かれたという「 高崎藩銚子陣屋地図」である。

弘化4年(1947)時の高崎藩の藩主は、大河内松平家10代の「松平輝聴(てるとし)」で20歳。銚子陣屋の奉行は「牧野孫兵衛」、代官は「篠田九左衛門」でした。*高崎藩銚子陣屋、高崎歴史資料研究会編より)
*奉行は江戸幕府の職名であり政務を執行する人。代官は天領の農民支配担当。

北向きに御門を挟んで代官と役人の住居がある桁行26間 (47.3m) ×梁間4.5間 (8.2m) の建物は長屋門と思われる。長屋門の前には堀割りが廻り敷地の一部を囲んでいる。この掘割りに使われていた石が、「旧陣屋跡」碑(当公園東端角) の土台として残っている。

御門を入った表面には陣屋の中でもっとも大きな郡奉行の役宅をとかねた御役所が構えている。役所のまわりには、勤番長屋、米倉、製塩所、武器蔵、稽古所と鉄砲の射撃練習場などがあり、 土塁を経て牢屋の文字も見える。

また、役所の巽(東南)の方角に二基の鳥居とともに熊野大権現稲荷大明神が祀られている、三ヶ所の井戸が点在しているのが見えるが二ヶ所は既に埋立てられてしまい現在一ヶ所だけ公園内に残っている。

高崎藩銚子陣屋地図より(陣屋公園内)

高崎藩銚子陣屋が統治していた村

【高崎藩銚子領17ヶ村】※()内は現在の市町

高崎藩銚子陣屋-銚子領17ケ村位置図
高崎藩銚子陣屋-銚子領17ケ村位置図

「海上郡飯沼村」(銚子市)、「高神村」(銚子市)、「小川戸村」(銚子市)、「荒野村」(銚子市)「新生村」(銚子市)
「本城村」(銚子市)「長塚村」(銚子市)「今宮村」(銚子市)「三崎村」(銚子市)
「垣根村」(銚子市)「四日市場村」(銚子市)「岡野台村」(銚子市)「野尻村」(銚子市)「小船木村」(銚子市)
「見広村」(旭市)「蛇園村」(旭市)「後草村」(旭市)
*所々、領地は離れていました。間には幕府領や私領がありました。(高崎藩銚子陣屋、高崎歴史資料研究会編より引用)

*石高の大きい順番にあげると、高神村が約964石、飯沼村が約782石、長塚村が約589石、野尻村が約548石、小川戸村が約506石。(以下は勝手ながら省略しました。)
※石高は「旧高旧領取調帳」による。

現在は旭市の3つの村も、銚子陣屋の領地だったんですね。

【天保(1830-1844)、銚子4箇村の戸数、人口】

飯沼村(7663人)、新生村(1297人)、 荒野村(2864人)、今宮村(1272人) 、4村で合計13096人(戸数は2742戸)。他の村のデーターはありませんでした。
※千葉県銚子港沿革誌より

この時代、弘化4年(1847)に 銚子で起こったこと

上記「銚子陣屋地図」の書かれた弘化4年の前後、文政6年(1823)から嘉永4年(1851)に限定して、陣屋関連と大きな出来事について書き出しました。

【文政6年、1823】高神村名生他が、“天明の飢饉のおりに難民を救った”と伝えられる高崎藩銚子陣屋代官 「庄川杢左衛門」の頌徳碑を村内に建立する(銚子史)

【文政7年、1824】イギリス船が常陸の浜に現われる。

【文政8年、1825】幕府、諸大名に外国船の打ち払いを命ずる
・幕府が「文政の改革」に着手し、関東全域に組合村の結成を指令する。

【天保2年、1831】利根川沿岸の水害防止のため、 刈流し定杭を立て、定抗外の芦は毎年地先村々で刈り流すことになる(千葉県銚子港沿革誌)

【天保3年、1832】この年諸国凶作、天保の飢饉始まる。
全国的に一揆、打ちこわしが起こる。(銚子の荒野村の商家でも打ちこわしあり)、幕藩体制の危機が激化した。

天保の飢饉とは、天保4~7年(1833-36)に起った全国的な飢饉。米価狂騰し、餓死する者多く、 幕府の救済した者は前後70余万人に及んだ。(広辞苑第三版)

【天保11年、1840】幕府御城米船、鹿島沖で暴風にあい大破。銚子湊へ入港。

【天保12年、1841】幕府、天保の改革(1841-1843)を開始する。

【弘化元年、1844】飯岡助五郎が笹川繁蔵方を急襲する。笹川方の浪人・平手深木が死亡する。(『千葉県の歴史』天保水滸伝より)

【嘉永2年、1849】この年、外国船が近海に多く出没。幕府外国船打ち払い復活の可否を有司に詰問する。

【嘉永4年、1851】高崎藩、沿岸防備のため、銚子に砲台13を新設、または修理し、大砲5門を鋳造する。(藩史大辞典)
この年高崎藩主「松平輝聴」が海岸防備検分の為来銚

鰯漁が好調・関東醤油が江戸のシェア奪還

イワシ
イワシ

【漁業】安政・弘化のころ鰯漁が最盛期を迎え、飯沼・高神両村に八手網が各四十帖以上あったという。元治元年には鰯の大漁があり大漁節が作られる。(『千葉県銚子港沿革誌』)より
*鰯の漁獲量は年により豊漁・不漁と変動していました。

【醤油】天保年中(1830-1844)に醤油の飯沼村「田中玄蕃」、別家田中常右衛門に1316石を分けて今宮村に醤油蔵を始めさせる。(『社史銚子醤油株式会社』)
*田中常右衛門の醤油蔵は、田中玄蕃の第2工場的な役割をはたし、銚子醤油合資会社の創立に関わりました。田中玄蕃はヒゲタ醤油の始祖であり、後にヒゲタ醤油となりました。

*文化年中(1809-1818)には、「関東8組造リ醤油仲間」が成立している。8組とは、銚子・野田・成田・川越・玉造・江戸崎・水海道。

*江戸時代中期まで江戸の醤油市場は上方からの『下がり醤油(関西醤油)』に占められていたが、関東の醸造業者は品質向上と価格の見直しで対抗。

こうした経営努力により、関東醤油は文化・ 文政期(1804~1830)には江戸における関西の醤油のシェアをほぼ奪ったという。

他にも、文政年中(1818-30)に、紀州より鰹節製造法を取り入れ品質を改良し販路拡張を図る。天保12年(1841)には、高神村でさつまいもを50町歩ほど作付ける。

銚子陣屋を語る事件:慶応4年「美加保丸の遭難」

幕末の慶応4年(1868)に銚子の東海岸・黒生沖にて幕艦の座礁事件が発生します。
当時の“銚子黒生や陣屋の様子”について銚子市史などに書かれていますのでご紹介します。。

美加保丸絵図(遊撃隊起終並南蝦夷戦争記上より)
美加保丸絵図(遊撃隊起終並南蝦夷戦争記上より)

【美加保丸(みかほまる)の遭難とは】
戊辰戦争(新政府軍と旧幕府軍との戦い)の最初のころの事件になります。
1868年(慶応4)8月1日、 榎本武揚の率いる幕艦8隻が江戸・品川沖を出帆して箱館に向いました。ところが房総沖で暴風雨に遭い、 幕艦の一隻・美加保丸が(銚子)黒生海岸の岩に乗り上げ、難破沈没しました。翌日地元民が難破船を発見しました。

鎮府日誌には“銚子陣屋では厄介物騒な連中を前にして、 僅かの役人では手の下しようもなく、近接の領主に援兵を頼むやら、脱走人の懐柔に務めるやら。 その心労は容易ではなかった”と書かれています。
夜陰に逃亡するものも相次ぎ、窮状を鎮将府に訴えている。

「銚子市史」によると、「銚子の人々は当初、半死半生の脱走兵達を手厚くいたわり、代官または武士には、もてなした。これが朝敵賊徒であったと知るのは遅すぎ、皆逃亡された。

9月になり他からの情報で脱走者であったことを知り、銚子陣屋役人に至っては、賊軍の兵の逃亡を許し戦々恐々としていた。
結局、鉄子陣屋を管轄している高崎藩の措置について、後日、新政府から対応の不行き届きを指摘した請査(お叱り)の沙汰書が出されたという。

銚子陣屋は、現在のどこ?

陣屋町という名は、昭和8年(1933) の銚子市制の施行により新しく付けられた町名で、昔は西町、郭町と呼ばれていた。
昭和20年(1945)に受けた戦災で、陣屋町地域は焼き尽くされた。戦後に行われた銚子市の土地区画整備事業により、かっての郭町のおもかげはない。
「高崎藩銚子陣屋」が現在の陣屋町のどのあたりに所在していたかの調査を行っています。

下記の中央が陣屋のあった場所です。

銚子陣屋-現在の地図上の位置
銚子陣屋-現在の地図上の位置

現在の陣屋町と南町のあたりで、面積は陣屋町公園の三倍位ありました。

【まとめ】陣屋から銚子の歴史を知る

銚子陣屋は銚子の役所、お寺・農家場・醤油屋・漁場の真ん中にあり、領内の年貢の徴収や領内の治安維持、 領民からの訴訟などの治にあたった。
また海の事故や海防など多岐にわたっていたのがわかりました。
幕末におけ銚子陣屋の役割を知ることができました。

*長くなりましたので今回はここまでにします。
次の記事に-2て、銚子は「なぜ上野国(群馬)の高崎藩の管轄にあったのか」について調べています。

※最後までお読みいただきありがとうございました。
「あなたの知らない千葉県の歴史」洋泉社刊、「銚子と文学者とのふれあい」銚子市教育委員会刊、年表「江戸・明治・大正の銚子」岡田勝太郎編、「高崎藩銚子陣屋-ヒゲタが書き留めた高崎藩」高崎資料歴史研究会刊、定本「渡辺華山」第2巻 手控編、を参考にしました。