「銚子陣屋」跡が物語る歴史-2-なぜ高崎藩の陣屋が銚子にあったのか?-幕末の藩の様子

江戸時代、銚子は高崎藩の管轄にあり、高崎藩銚子陣屋が置かれていました。

高崎藩銚子陣屋

旧陣屋の跡が残っているのは、現在の“陣屋町公園”です。

【陣屋とは】旗本や郡代・代官らが支配地に設けた役所。官舎である本陣、執務場所の役所、手代や属僚の長屋・小屋、 米蔵、牢屋などを含めた総称。
(*近世史用語辞典、新人物往来社刊より引用)

旧陣屋跡-石碑-銚子市
旧陣屋跡-石碑-銚子市

江戸時代には、現在の銚子市域は香取郡6村と海上郡 35 村から成り、その土地の多くは幕府領や旗本知行地でした。
その後、1709 年(宝永6)には上野高崎藩領に、そして 1717年(享保2)には幕府領となり、再び上野高崎藩領として幕末まで続きました。

この所領の管轄のために飯沼には高崎藩の陣屋(銚子役所)が設置され、郡奉行などが勤務していました。

利根川は物流の要所、領主による流通機構

幕府は近世の初期から年貢米の輸送のために水陸の交通路の整備をした。
元禄には河岸・湊の設定により“領主による流通機構”が確立されます。
(幕府が防衛のため陸路の発達を望んでいなかったこともありました)

中期以降になって、地廻り荷物の流通も活発になった。水陸交通のネットワークが形成され、特に水上交通は陸路を上回る大量輸送路であったので発達した。

利根川はその大動脈だった銚子のおもな河岸(かし)は、飯沼、野尻でした。
高瀬船があって、醤油や酒などが江戸に運ばれた。下総国の村々の年貢も江戸に送られた。

東廻り海運によって運ばれた東北諸藩の年貢なども、銚子で高瀬船に積みかえて利根川、江戸川を使い江戸に運ばれていた。
*【河岸(かし)】とは、川船から荷や乗客を上げ下げする場所。

なぜ銚子は(群馬の)高崎藩の管轄にあったのか?

それには高崎藩の歴史を振り返らないとわからないので調べてみた。

天正18年(1590)徳川氏が関東入国し、慶長8年に徳川幕府を開く。高崎藩は、上野国が井伊直政に与えられ、慶長3年(1598) に井伊直政が箕輪から高崎に移城し立藩された譜代藩
(*上野国とは群馬郡・碓氷郡・片岡郡)
(*譜代大名は代々徳川家に臣従し功績をあげ、1万石以上の石高と格式を与えられたもの。幕府の要職をあずかり幕藩体制を支えた)

上野国高崎藩-家紋
上野国高崎藩-家紋

慶長5年井伊直政は近江国へ転封。
慶長9年(1604) 下総国から 「酒井家次」が入封
元和(げんな)5年(1619)に下総国小見川から「安藤重信」が入封
安藤重信没後、子の重長、孫の重博と遺領を継ぐ。
〜元禄8年(1695)重博は備中国へ転封。 同年松平(大河内)輝貞入封。
(※安藤氏3代の高崎領における治績は、絹市場開設など近世城下町高崎の基礎を築く治績を残しました)

宝永7年(1710)安藤輝貞は越後国へ転封し、相模国から間部詮房(まなべあきふさ)が入封。(幕府要職にあった)問部は 越後へ転封、
享保2年 (1717)代わって松平(大河内)輝貞が再び入封幕末まで高崎藩は松平(大河内)氏の領有するところになる。

銚子が高崎藩領となったのは、間部詮房の時といわれています。
藩の歴史をみると、途中、下総国から「酒井家次」、下総国小見川から「安藤重信」が入封していて、 昔から“上野国高崎藩は下総国と縁があった”ことが見て取れます。

【入封、転封が頻繁に行われた理由】

入封(にゅうほう)とは、江戸時代に大名が新しい領地に入り、統治を始めることをしめす。転封に伴って行われた。
転封(てんぽう)とは、大名の領地を“幕府の命令”で替えること。 国替え。

*「転封」がおこなわれたのは、大名の力を削ぎ、領地への影響力を弱め、反乱を防ぐため。 物流の要衝に配置したのは政権のコントロールを強くする為でした。

高崎藩は城下町高崎の基礎を築くなど堅実な治績を重ねていました。
幕府からの信頼も高かったのではないかと推察します。

*「藩史大辞典第二巻関東編」より一部抜粋。(注意)上記高崎藩の歴史は下総国に関する部分を抜き出しています、すべてではありません。

徳川幕府に近い千葉特有の理由もあり。

江戸時代に入り千葉は幕府の統轄が強くなっていきます。

近世の千葉は、徳川時代に江戸を政治的・経済的に補佐する地域として幕府から特に重要視された。新田開発、治水、水陸交通網の整備など、幕府の要求に応じる形で開発が行われた。

利根川東遷事業により、利根川沿いの村では江戸に舟運する商品作物の栽培が盛んになり、銚子や 野田の醤油が江戸で人気を集めた。(次第に関西産の薄口醤油を圧倒して、濃口醤油を関東に定着させた。)
江戸時代初期に紀伊半島から伝えられた地曳網漁業は千葉の漁業を発展させ沢山の魚が獲れました。

豊富な物資を通じて江戸と強く結びついて発展していった。”
また江戸との交流は、豪農・豪商層を生み出した

経済人・文化人も頻繁に訪れて、千葉の文化水準を向上させた。 
(佐原の豪商・伊能忠敬が日本地図作成を成し遂げたのも時代を象徴する出来事という)

銚子もそういう重要な地域のひとつでした

近世を通じて譜代小藩・天領・旗本領などが混在し、改易・転封が頻繁に行われたのも、「幕府のお膝元」ゆえの千葉の特色でした。

一方で複雑な知行関係は、 武士による支配力の低下や農村の疲弊、治安の悪化を招いた。(義民・佐倉惣五郎や天保水滸伝で知られる侠客・飯岡助五郎らが登場する背景となった)

江戸末期における陣屋は、18世紀末頃から通商を求める外国船が来ることで、幕府の命令の元、次第に海防の意識が高まった。
海岸線の地域を守るという大事な役割が増えた。
国内では幕藩体制への不満が出始めて、陣屋は難しい舵取りを迫られました。

明治4年(1871)高崎藩は廃藩置県により廃藩

銚子陣屋は銚子の役所。利根川が経済で江戸と銚子を繋いでいました。群馬の上野国高崎藩の管理下にありました。銚子陣屋の役割が垣間見えました。

幕府の制度が変わり組合ができるなど村の役割も変わっていきました。
飢饉があり食べていくのも大変な時代。

沿岸に外国船が来るようになり、武士以外の周辺の村々にも、不審船の報告など様々な労役が課されていました。

社会のかたちが整っていく傍らで、不安定な部分は残されている。
世の中は大きく変わっていきました。

銚子陣屋の最後の高崎藩主は10代目「松平輝声(てるな)」。
松平(大河内)氏10代は約170年間にわたり高崎藩をおさめました

(その治績は高崎城下を小江戸と呼ばれるほどの繁栄にした事や大火に遭うも復興するなど大きなこと。)

明治4年(1871)7月、高崎藩は廃藩置県により廃藩となり、高崎県を経て第1次群馬県に編入されました。

【廃藩置県】明治4年(1871)7月、政府が旧来の藩制を廃して全国に郡県制度をしき、中央集権をはかった施策。同年末には北海道のほか三府七二県が置かれた。

「藩史大辞典第二巻関東編」より一部抜粋

幕末の藩と陣屋に思いをはせた

藩は出費増加や環境の変化に苦しんでいました。
借金が膨らんでいったのには様々な理由がありました。

地震・飢饉などの災害復旧費用、幕府命令の公共事業への動員。
商業資本の台頭(現物経済から貨幣経済への移行)による支配力の低下
経済発展により実権が大商人や町人といった商業資本の手に移っていきます。
財政難から藩は大商人などから「御用金」として献金を募ったり借金をするようになりました。
しかし借金の返済も難しくなり支配力も低下していきました。

「高崎藩銚子陣屋」高崎藩歴史資料研究会編より
「高崎藩銚子陣屋」高崎藩歴史資料研究会編より

ヒゲタ醬油に残る「玄蕃日記」は、幕末の銚子陣屋におけるヒト・モノの流れが記録され、米など物品のやりくりや資金繰りも書かれています。
「玄蕃日記」は明治5年(1872)を最後に終わっているのですが、銚子陣屋の最後の管理者は“奉行”ではなく“総裁”でした。

明治になり醤油・魚など商品の流通が拡大する一方、物流の仕方も利根川から変化していきます。銚子も変化が求められる時代に入っていきました。

「なぜ高崎藩の陣屋が銚子にあったのか」について調べたら、江戸幕末の藩の政治経済や千葉の役割などがわかり、興味深いものでした。

陣屋の建物は壊されて残っていませんが、“高崎藩銚子陣屋の跡”は陣屋町公園の中に残っています。機会がありましたら一度訪れてみてくださいね。
(銚子だけでなく高崎にも)

*「陣屋」の建物を見たいと思い調べたところ、幕末に60数か所あった陣屋の内で現存する陣屋は岐阜県高山市にある「高山陣屋」の一つだけとのこと。
いまや陣屋は希少なんですね。

*足りない所は多々あったと思います。それでも最後までお読みいただきありがとうございました。次回は「渡辺崋山の銚子陣屋」-3です。陣屋時代の銚子磯巡りの様子を書きます。しばらくお待ちください。

*「あなたの知らない千葉県の歴史」洋泉社刊、「銚子と文学者とのふれあい」銚子市教育委員会刊、年表「江戸・明治・大正の銚子」岡田勝太郎編、「高崎藩銚子陣屋-ヒゲタが書き留めた高崎藩」高崎資料歴史研究会刊、定本「渡辺華山」第2巻 手控編、「藩史大辞典第二巻関東編」を参考にしました。