*竹久夢二写真館「女」栗田勇著 新潮社刊を読んだ感想になります。
この本には夢二が撮った写真が多く掲載されています。
そのうち銚子で撮られた写真が2枚あります。
日傘をさした和服の女性。利根川の桟橋にかがんで水面を見つめる姿と同じ桟橋で振りかえる立ち姿。「お葉」です。
どこで撮られたのでしょうか?興味がありました。
*下記は夢二が撮った桟橋の写真ではありませんが、大正から昭和初期の利根川河岸風景です。


この本は竹久夢二と特に縁が深い三人の女性の写真が多く載っています。
記録として撮られたものもあるが、夢二が“女性の美”を意識して撮ったであろう写真もある。
その特徴は着物を着て「目は大きく」「撫で肩」「伏目がち」「少し首を傾げて」遠いどこかを見つめている姿だ。(夢二ファンであればお馴染みの女性)
その特徴をこの本の写真の中で目にした。
「お葉」の写真に、絵から出てきたような姿に‥、時代を超えて息づいている。
それが不思議でした。
本の内容を簡単に
この本には夢二と三人の女性、たまき、雪乃、お葉との関係、遍歴を中心にして、旅先ですれ違った長谷川カタや様々な女性が出てきます。
女性達と夢二との関係について著者・栗田さんは分析をしている。
夢二の精神的な部分も考察し、それを“詩的な文章”に昇華している。
その感覚は“愛と旅の思索者”として有名な著者・栗田さんらしく、研ぎ澄まれた文章が鋭く夢二の気持ちを推測している。
なので私はそこでなく、違う部分に注目してみた。
写真に写るモデルとしての「お葉」に注目して書いてみます。
彼の女性の写真からみえること
筆者である栗田さんは竹久夢二の絵をみてきて、その『絵に出てくる女性の姿』に夢二の個性をみていた。
それは「永遠にただひとりの…」しかも「現実的にはおそらくいないだろう」という特徴がある女性の姿だった。
そして夢二の撮った写真を見てそこに絵のイメージと同じ『夢二の女性』が写っていた事に驚いた。
「かがむ女」「後姿」「立ち尽くす女」「斜め下をぼんやりと見る女性」、哀しい女の姿が胸に沁みてくる。
実際に会っているわけではないのに、彼女達が持つ運命を感じる。
切ないドラマの1ページを覗きみているようだ。
夢二式美人に近いのは「お葉」?
この本写真館には、「お葉」がよく出てくる。
出ている女性の中でもお葉はモデル然としている。
(まるで絵から飛び出してきたような姿)
3人が写っている写真の数を数えてみた。
たまきの写る写真:7枚。
彦乃の写る写真:10枚。
お葉の写る写真:45枚。
お葉の写真が抜きんでて多い。
(*あくまで個人的な数え方です)
夢二は写真を撮ることが好きだったという。
(カメラは明治38年に発売され次第に広まっていった)
「お葉」の写真が多く取られている理由は、お葉が夢二の描く絵の中の女性のイメージに近かったからではないだろうか。
夢二は写真を撮るにあたりお葉にポーズをとらせている。
たまきや彦乃が写っている記録としての写真ではない。
理想の高い夢二のこと、モデルなら誰でもよかったわけではないだろう。
夢二が歳の差のある「お葉」と出会ったのは大正8年、夢二が36歳の時に美術学校で。気に入った“佐々木かねよ”17歳をモデルとした。かねよに「お葉」という愛称をつけた。
「お葉」は明治37年秋田県の生まれ、東京へ出て人形工場に勤めていたが、美術学校の人にモデルなら稼げると誘われて絵のモデルの仕事になった。幼い13-14歳から縛り絵・責め絵として藤島武二のモデルをしてお金を稼いでいた。
家庭の事情から貧しい幼少期を過ごした。その点がたまき、雪乃と違っていた。
お葉はモデルとして描かれる事に慣れていた。お葉は若いが夢二に応える才能を持っていた。
大正8年に彦乃を失い無気力でいた夢二のことを想い尽くした。夢二もお葉に救われていた。彼女は夢二の芸術的な感覚に寄り添える『稀有な女性』だった?
若き川端康成は、夢二宅を訪ねた時に夢二は不在だったのだが、女性が鏡の前に座っていた。その立ち振舞い、一挙手一投足が『夢二の絵に描かれている女性そのもの』だったので、康成は自分の眼を疑い言葉を失ったという。
この時家にいたのは「お葉」だったいう。
そんな理想に近かったはずのお葉。そんなお葉とも長くは続かなかった。
写真に写る夢二のこころ
男と女はお互いに愛しあいながらも、孤独からは逃れられない。
誰しも哀しさ・寂しさを抱えている。
現世での出会いを思い出として残そうするのでなく、自分の愛した女性に自分の永遠の理想を求め、とらえようとする。夢二は世俗的な安定を求めない。
夢二の繊細な感性は、世間とは違っていた?。
著者は夢二の女性をとらえた構図「腰かける」「寄りかかる」「振り返る」から彼の心の空洞、無意識の絆、決別など、様々な気持ちをくみ取ることが出来るのではないかという。
芸術に生きている竹久夢二の姿を想像する出来る。写真であればこそ推測できる。自分に嘘をつけない彼の性格も写真に透けて見えるようです。
夢二が心を満たすために彼女達と楽しみ、彼の想いを写真に残そうとしていた?
若き川端康成は、夢二宅を訪ねた時に夢二は不在だったのだが、女性が鏡の前に座っていた。その立ち振舞い、一挙手一投足が『夢二の絵に描かれている女性そのもの』だったので、康成は自分の眼を疑い言葉を失ったという。
この時家にいたのは「お葉」だったいう。
喪失感を癒す旅
夢二とお葉との銚子旅行で行ったのであろう桟橋が気になり、始めた今回の記事。
夢二がお葉と銚子に出かけたのはいつなのか?
夢二の年表を調べました。お葉との関係から大正8年(1919)から11年ごろだとは思うのだがわからず。結局時期も場所も特定することは出来ませんでした。
外見的には欲情に溺れ、華やかな人々に囲まれて、お金持ちであれば、気ままな生活をおくっているように見える。しかし、流行作家であるがゆえに悩みも多かった。
創作を続けなければいけないのに、孤独になれる時間は少なく、精神的なコントロールは難しかった。
夢二は次第に疲れていった。それを癒すため色々な所に旅をした。
以前読売新聞社に入社して、若い時に取材で行ったことのあった銚子は、気分を変えることの出来る貴重な旅先だったのかもしれません。
当然創作への意欲やテーマを探す目的もあっただろうが、彦乃への喪失感もあったはず。
気分転換で出かけた銚子の利根川、お葉をつれていって撮った写真に写っているのはやはり「夢二式美人」だった。
利根川に伸びる桟橋には、眼を伏せて川面を見つめる「お葉の姿」が残ります。
気分はかわっても、仕事への意欲を取り戻すまでには至らなかった?
なぜ女は夢二を見ないのか?
大正8年(1919)は、銚子汽船株式会社が発動機船をもって銚子波崎間に渡航の運航を始めた年、銚子の町も利根川から鉄道へと人の移動も変化していきました。河岸も埋め立てがあったはず。
その発動機船は型式を変え、戦後まで長い間利根川沿いで運行されていましたが、すでにありません。静かに水面が揺れているだけ。

桟橋があったのは、おそらくもっと松岸よりだろう。そこまで河口から離れれば海から遠くなって波も優しい。
そこは江戸から来た旅人を迎えていた場所にちかく、旅人を運んできた船がついていた。
ふと頭を横切ることがあった。
お葉はその不幸な生い立ちから、夢二との生活に安定を求めていたのではないかと。歳の差が19あったお葉にとって、夢二と一緒になるのはかなりの決断だったはず。
しかし夢二はそれに応えず。彼の魂は決められた関係を拒絶していった。
夢二は「お葉」と真正面から向き合えなかった。
お葉は若き書生との出会いもあり、夢二への想いも薄れていきます。
大正14年、お葉は夢二宅を出て二度と戻ることはありませんでした。
*個人的な感想を含みます。「竹久夢二正伝」岡崎まこと著 求龍堂刊を参考にしました。最後までお読みいただきありがとうございました。