他万喜-彦乃-お葉-生い立ちと性格の違い-愛と哀しみの人生-竹久夢二-1

明治・大正時代の寵児として一世を風靡した詩人画家「竹久夢二」。
彼の近くには常に女性がいました。
この時代を生き抜いた女性たち、その裏には様々の人生模様があり。
主な三人の女性(他万喜・彦乃・お葉)と夢二との関係を調べました。

*「愛と悲しみの詩人画家竹久夢二」株式会社学習研究者刊、「竹久夢二抄」尾崎左永子著 平凡社刊、「待てど暮らせど来ぬひとを」近藤富枝著(株)講談社刊、を参考にしました。

他万喜(たまき)彦乃(しの)お葉(カネヨ)の三人の女性-竹久夢二との関係

明治から大正・昭和を生きた詩人画家「竹久夢二」、彼の人生の中には沢山の女性が登場します。
多くの女性達がモデルとなり夢二の絵に影響を与えました。また彼の人生にも影響を与えている。

その中で有名な女性三人を取り上げます。
他万喜(たまき)、彦乃(しの)、お葉(カ子ヨ=かねよ)の三人。
生い立ちも性格も違う女性達、人気詩人画家との関わり合いは様々でした。

「愛と悲しみの詩人画家 竹久夢二」この本によれば、
『たまき(他万喜)は“妻”、しの(彦乃)は“恋人”、お葉(カ子コ)は“情婦”に例えられる』といいます。

(もちろんこれは夢二側から見た役割です。)

彼女たちの姿や生きざまは、どうだったのでしょうか?
その点に注目して調べてみました。

【竹久夢二(1884-1934)】

明治17年岡山県邑之郡(おくぐん)本庄村(現在の邑之町佐井田)に生まれる。
邑之郡本庄村は芸能が盛んな町で人形浄瑠璃や村芝居が盛んだった。
家業は造り酒屋。名は茂次郎。祖父は人形つかいで国中を歩く夢を見ていた人。

上京して早稲田実業高校から早稲田実業高校専攻科にすすむも中退。
しばらく「平民社」の一員となり社会主義に傾倒していた時期もあった。

絵葉店つるやで他万喜に出会う。のち読売新聞社入社。
挿絵画家として「夢二式」と呼ばれる女の形を創作した。

詩画集「夢二画集」「昼夜帯」「露路の細道」など。
(出典:一部広辞苑第六版より)

「大正の浮世絵師」「詩を絵で書く人」とも称される。
今でいう「グラフィックデザイナー」の先駆け

夢二の性格・人柄

感受性が豊かで心優しい人。
優柔不断
束縛を嫌った・約束ことを嫌った。
・嫉妬深い男。
・偽善的に生きることを良しとしていない?

(他万喜との関係から見える)
・日常に埋没することが苦手。
・意志の強い女性が苦手?
流離への指向が強い。

・カタから不良っぽく見られていた。

【代表的な三人の女性】

1,「岸他万喜(たまき)」という女性

明治15年石川県金沢の生まれ。父は富山の裁判所の判事。
夢二にとっての第一の女性であり、唯一戸籍に入った女性。

他万喜は、石川で24歳の時に夫(教師で日本画家)と死別、地元の小学校で図画と習字を教えていた。
上京しその当時流行っていた絵葉書の商売を始めるなど利口でしっかりしていた。
あでやかで感情過多・ハッキリものをいう三十代の女性。

明治39年(1906)11月、夢二22歳の時に開店したばかりの『絵葉店つるや』で出会う。

夢二24歳の時入籍、25歳の時に長男誕生

明治42年5月、26歳の時に他万喜と協議離婚の届け出・除籍

明治43年1月、27歳の時再び他万喜と同棲を始める。
(明治43年8月、他万喜とともに銚子町海鹿島を訪れる)

明治44年、27歳の時に次男(不二彦)誕生
(明治44年夏、銚子犬吠埼で『長谷川賢子(カタコ)』と会う)

大正3年(1914)1月、30歳の時に他万喜と画会のため岡山へ。
大正3年10月、夢二のすすめで絵草紙店の「港屋」を開店
(お店で『笠井彦乃』と出会う)

大正4年2月、他万喜と泊温泉で刃傷さわぎ

大正5年(1916)2月、32歳の時に三男誕生
同8月港屋が事実上の閉店に。他万喜の家出

夢二は明治39年開店したばかりの絵葉屋の奥に“色白の美人が座っている”とのうわさを聞く。
他万喜がいる「つるや」に、夢二が絵葉書を売り込みにいったことから付き合いが始まる。
夢二と所帯を持ち二歳年上の姉さん女房となる。
夢二との間に三人の子供をもうけながら、離婚・再同居なども経験。

前半生を逞しく生きた。他万喜は肉感的で、眼の大きい美貌の持ち主
夢二の最初のモデルであり、「夢二式の美人」の元になったと言われている。
店番していた彼女は多くの夢二ファンをひきつけたという。

2,二番目の女性「笠井彦乃(しの)」

明治29年(1896)3月、山梨出身。
日本橋にある紙問屋「芙蓉社」の長女。15歳で母を亡くし継母に育てられた。
美術学生。理知的で清楚な十一歳も年下の女性。
色が白くてきれいで明るい女性。笑うと糸切り歯が見える娘で手が美しい
白いうなじに黒子がある。

先生と生徒という関係では終われなかった。
恋に落ちてお互いの気持ちも惹かれ合う間柄となる。
夢二との待ち合わせ場所は、お茶の水駅近くのニコライ堂や一石橋であった。
(山梨出身のため夢二からは「」の愛称で呼ばれた)

出会って五年間という短い恋は、突然彦乃の病「結核」で中断。
彦乃は一年の闘病の後二十三歳十か月で生涯を閉じるという薄幸の女性

大正3年10月、港屋開店。笠井彦乃と出会う。

大正4年5月、美術学生20歳の彦乃と結ばれる。

大正6年6月、彦乃は京都に来て夢二と一緒に住む
大正6年8-10月、夢二は彦乃・不二彦と共に石川県の温泉を回る。

大正7年8-9月、夢二は長崎旅行も、あとからきた彦乃は体調崩して別府で入院
大正7年年末、彦乃は東京に移されお茶の水順天堂医院に入院

*大正8年(1919)2月、36歳の時「カネヨ」を「お葉」と名付け通いモデルに。

大正9年1月、彦乃はお茶の水順天堂医院にて永眠

彼の芸術も高みにあるときであり、三十歳の夢二にとっては決して忘れることはできないこと。
他万喜との確執もあった。彦乃は夢二にとって“恋の相手”だったといわれる。
いままでおつきあいのなかった清らかな高嶺の百合、お付き合いしている間は「ささやかな平安の時」だった。
この時期の夢二の絵はとても充実していたと言われる。

世間から追われるように二人の恋は、東京から京都、金沢・長崎と舞台を変える。
お互いに自分の気持ちに従おうとすればするほど障害が立ちはだかる。
結核にかかった彦乃は京都の病院に入院。
この後夢二は病室に入ることも許されず、京都から東京神田御茶の水順天堂医院にうつり1年闘病
彦乃は大正9年に数え年25歳でその生涯を終えた
お互いに求めあうも、最後は逢うことさえできなかったといわれている。
歓びになって悲しみとなった。

*次ページ、三番目の女性「佐々木カ子ヨ(お葉)」に続きます。