他万喜-彦乃-お葉-生い立ちと性格の違い-愛と哀しみの人生-竹久夢二-1

3、三番目の女性「佐々木カ子ヨ(お葉)」

お葉(カネヨ)は本名佐々木カ子ヨ。
画家たちに良く知られた美しいモデルだった。(情婦にたとえられることもあり)
佐々木カ子(ネ)ヨ後に夢二が「お葉」と名付けた若い女性だ。

大正7年(1918)夢二は京都の住まいを閉じて東京に戻った。
彦乃との別れを覚悟していた夢二は落ち込んでいた。
「菊富士ホテル」で創作に励むある日、東京美術学校の生徒がモデルをつれてくる。
「佐々木カ子ヨ」は秋田出身の十六歳で、“うりざね顔”の優しい顔
田端の荒物屋に間借りして母と一緒に住んでいた。

大正8年(1919)2月、36歳の時に佐々木カネヨを「お葉」と名付け通いモデルとする。

大正10年8月、38歳の時「お葉」(佐々木カ子ヨ)と世帯を持つ
何度かお葉の家出もあった。

大正13年12月、41歳の時府下松沢村の新居にお葉と移る。

大正14年5月、山田順子があらわれ、お葉は去った

それまでもモデルがいないと描けない夢二だったので、「器量のいいお葉」はモデルとして自然な出会いだった。
(お葉は悲処女であった。心が優しすぎて自己を持たない。騙されやすいタイプ。)
お葉と展覧会の作品にとりくむうちに、彦乃との傷心も次第に回復していった。

夢二はお葉を自分の好みに育てようとした
同棲を始める。
展覧会後に彼はお葉と伊香保・長野・松本・沼図方面に旅に出る。
旅では夢二はいらいらして不機嫌になることもあり、お葉と言い争いもあった。

気のいいお葉は、夢二を慕っていたが、正式な妻にしてくれるわけでもなかった。
いたたまれなくなることもあった。
夢二の仲間の間ではお葉の評価は、「うそつきオカネ(カネヨ)」から次第に「実のあるやさしい女」に上がっていったという。
夢二にとってお葉は小悪魔的な要素もあり、女性として都合がいいところもあった。

ここまでのまとめ

推測】三人の女性の生きざま、夢二との距離

生きるために苦楽を共にした逞しい女性、夢二と子供を持ち家庭を守ろうとした女。
世間がみえる大人の女性。夢二より2歳年上。(他万喜

・素性のいい明るくて若き美術学生、先生と生徒という普通の関係。
禁断なれど利害関係がない恋の相手
世の中を知らずこの世を去った薄幸の女性。夢二の12歳年下。(彦乃

・若き美人モデルで夢二を慕っていた女性。彦乃との別れもあり、欲求と必然がもたらした関係。
結果的に夢二を癒す役割も果たした。
けなげに自分に足りないところを補おうとした女性。
夢二の18歳年下。(お葉

三人の中では、岸他万喜は特別。不思議な関係。

「岸他万喜」は最初に入籍した女性であり、夢二との間に子供ももうけた。
夢二とは様々な夫婦間の問題をかかえながらも暮らす。

そんな夢二との生活の中でも、他万喜は彦乃や賢子とも出会い・夢二との関係を横でみている。
美術学生だった「彦乃」が港屋にきたときは、夢二に“この子の絵をみてやるように”口添えをしている。
また彦乃と次男不二彦とのふれあいを許していた。
勘も良かった。

一緒に行った銚子への旅先でであった「長谷川賢子(カタ)」とは、東京へ帰った夢二への返信をうけとり、
夢二に渡すてはずをしたという。

夢二とは喧嘩や別居・離婚などいろいろとありながら続いていく。
他万喜はハッキリした性格だったのに‥、不思議な関係です。

ただ他万喜は元夫が画家だったこともあり、絵に対しての造詣はあっただろう。
美術家としての夢二を尊敬していたのだと思う。

子供がいたことで簡単に別れることはできなかっただろうし、相当我慢をした大人の女だった。

一方夢二にとってはしっかり者の他万喜と成功し、所帯をもち子供をつくり‥、
しかしそんな生活に縛られるのは苦手だった。

*今回はここでおわりです。長くなりましたので2回に分けました。
この記事の続きは「なぜ女性像が支持されたのか-竹久夢二-愛と哀しみの人生2-人間の悲哀の奥にある聖地を求めて」です。興味の湧いた方は、ぜひ読んでください。下にリンクを張っています。

*「愛と悲しみの詩人画家竹久夢二」株式会社学習研究者刊、「竹久夢二抄」尾崎左永子著 平凡社刊、「待てど暮らせど来ぬひとを」近藤富枝著(株)講談社刊、を参考にしました。
*最後までお読みいただきありがとうございました。