「神の子どもたちはみな踊る」村上春樹著-感想-石の心の意味することとは?

*村上春樹著「神の子どもたちはみな踊る」新潮文庫刊より、「神の子どもたちはみな踊る」を読んだ感想です。

上記に「UFOが釧路に降りる」「アイロンのある風景」「かえるくん地球を救う」を加えた4編が、今年2025年4月にドラマ化され、NHKにて放映されています。どんなドラマ、どんな脚色になっているのか、楽しみです。

ネタバレ有ります。小説を読んでからこの記事を読まれることをお勧めします。

神の子どもたちはみな踊る

舞台と登場人物

【舞台】東京 神保町 阿佐ヶ谷。

【登場人物】
善也(よしや)阿佐ヶ谷の賃貸マンションに母と二人で住んでいる。
神保町の出版社に務めている。時に深酒をする。
魔女狩りの声を聴いていると、胃の中に残っているものがうまく抜ける。

母は43歳。神様のお使いのボランティアをしている
端正で清楚、スタイルも良くて肌は艶やか。
母としての自覚は希薄で、時にエキセントリックな面がある。
(なので善也は母のそばを離れることが出来ないでいる)

【簡単なあらすじ】

善也は2日酔いの中で目を覚ました。枕元に時計はなく眼鏡もない。
透明な光と白煙、展望が平板。意識がもつれ気分が悪い。

息をするのさえ面倒。神に願う
二度と同じ目にあわせないでくれと。

神様のことで母を思いだした

母は信者さんたちと関西へ、地震被害者救済のボランティアに出ている。
しかし思い出そうとすると頭の芯が石に変わっていく。

僕らの心は石の心ではないのです。心はくずれません。
僕たちはかたちなきものを伝えあうことが出来るのです。

善也には父親がいない。

善也のお父さんは「お方」とよばれていた。一緒に住むことはできないといわれていた。
自分は「神の子」だという。

「導き役」だった田端さんは「“その方”はいつか~ 君の目の前に姿をお見せになる。
~ 信仰心を捨てたりしたら、がっかりして永遠に君の前には姿を見せられないかもしれない。」という。

しかし善也は13歳の時に宗教から抜けると伝える。
それは母を悲しませた。

善也は17歳の時、母から父(お方)のことを聞いたが、物理的な父はいないという。
「若い医者」とまぐわったのだが、完全に避妊していたので彼の子どもではない。
その“お方”は耳が欠けていた。

善也は信仰を捨てた。

理由は善也が父なるものの限りない「冷ややかさ」に直面したこと。
それは『暗くて重い沈黙する石の心』だった。

*母は神をある意味試したのかもしれない。
その結果‥生まれたのが自分

善也はある日父親らしき男(お方)と出会う。尾行していく。
人気のない架空のような場所に、グラウンドのような場所についた。

男(お方)は、そこにはいなかった。

そのグラウンドに出たことで、善也は自分の中にあった「生きる目的の意味」そのものが分解してしまった。
生死を分けるほどの重大な懸案だったのに。

彼の魂は晴れ渡った一つ時間とひとつの場所にたたずんでいた。

感想

真実を知ろうとすることは、いけないことなのだろうか?

何かが歪められていた空しさなのか、弱い自分についての悔しさなのか。
母は自分の心・気持ちにより添ってくれていたのだろうか?

神に心まで奪われていたのではないか
信仰は人の生活に寄り添うものなのではないか。

地震は一瞬で人間の生活を壊す。

神へのまっすぐな気持ちが人間の苦しみを救うことができる。
その複雑さを善也は素直に捉えることができない?。

自分が「神の子」でないのはわかっている。

大人は子どもに何を求めているのか?
神は求めていないのではないか?。

大人は神とつながるために、まぐわったり、他にも色々おこなう。
それが可能だと信じているから。
しかし神とつながるのは(石とつながるくらい)難しい。

(その性質が違う)

平板で白煙であった場所が晴れてきた。
暗闇の中で虚像?が消えて自分の姿が明確に見えてきた。
自分の感情に整理がついた。

善也はグラウンドで思った。「神様はこの世にいるのだろうか?」
神から求められ一人の人間にできることはなんだろう。

もし(仮に)神の子だとしても、(親である)神に見つけてもらいたいのであればただ踊るしかない。
生がある限り一生懸命生きて、神に寄り添い祈ることでしか報えないと。

*(注意)あくまでも個人的な意見です。
最後までお読みいただきありがとうございました。
村上春樹著「神の子どもたちはみな踊る」新潮文庫刊より「神の子どもたちはみな踊る」感想でした。