「カンガルー日和」村上春樹著-感想1-何気ない日常から切り取られた不思議な1ページ

この本の持つ楽しさは題名にも表れています。
「カンガルー日和」、何かワクワクしてきます。佐々木マキさんの挿絵も素敵です。
ページをめくるたびに小説の楽しさが感じられて、心も満喫できました

今回は18のショートストーリーの中から3編の感想を書いてみました。
いつもと変わらず自分なりの仮説をたてて読んでいます。
若干のネタバレがあります。小説を読んでから記事を読むことをおすすめします。
「カンガルー日和」村上春樹著 講談社文庫刊 を読んだ感想になります。

あしか祭り

舞台は主人公の家で9月のある日。
登場人物は主人公の男性とあしかで、午後1時に男性のお宅にあしかが訪ねてくる話。

【感想】あしかが男性を訪ねてくる。

あしかは「あしか祭り実行委員長」の肩書を持っている。
お願いがあってきたという。

小説の中盤にあしかが男性に言った“象徴的ご援助”という文言が、終盤には“精神的御援助”に変わっているのが妙におかしかった。

あしかは何か(国・文化・習慣)という大それたものを背負って登場しているような気もするし、一般国民のシキタリだとか、順序だとか、見栄も真似ている。または隠している?ような気もする。

普段あしかは海岸から少し離れた小さな岩場にくらしていて、人間の暮らしを冷静にながめていることが多いので、お付き合いをきっかけにして何か「人間様にものを言いに来た」とも言える。(考えすぎでしょうか?)

とても軽くて楽しいお話です。

スパゲティーの年に

舞台は主人公の6畳一間の部屋で、登場人物は主人公の男性と電話をかけてくる知り合いの女の子
彼は1年近くスパゲティーを食べて続けている。スパゲティーを茹でている時・冬の午後3時20分に、知り合いの女の子から電話がかかってきた。

【感想】彼は冬の日差しの中、部屋の畳の上“孤独の前”に横たわっている。

望んでそうなったのか・別れがあってそうなったのか不明だ。

物語の興味はなぜ彼がスパゲティーを作り続けているのかだろう。
小説の中で彼は“それは何かへの復讐のよう”でもあったという。
(これは推測だが)1971年に彼は心身に何かが起きて、頭が混乱し考えをまとめることが困難になった。
なので彼女との電話も会話になっていない。

春・夏・秋とスパゲティーを茹でることは、ある意味彼にとっての“生きる救い”になっていた、のではないかと思った。だから1971年はスパゲティーだけが記憶に残る年になった。

小説の終わりに出てくる“永遠に茹でられることがなく終わった一束のスパゲティー”とは、何もなければこの1年に“彼が体験し・感じるべきであった普通の時間”だったのではないかと思う。
*それは今まで茹で続けてきたスパゲティーとは違う、茹でることにかけた時間とは違うものだ。

バート・バカラックはお好き?

22~23歳の男性は文章添削のアルバイトをしている。
ハンバーグ・ステーキが好きだ。
その仕事をやめることになりハンバーグ・ステーキについて書評を返信した32歳の女性のマンションを訪問することになった。

【感想】主人公が21歳の冬から22歳春までを振り返っている話。

文章添削のため書いた手紙から、ハンバーグ・ステーキをたべる食欲に代わりそれが異性への興味に進んでいく。
意識したわけではなく。彼に春が来て人生の段階を一段上がると、ハンバーグ・ステーキにもとめるものも違っていた。

若者の人生が少しずつ変化していく様子がハンバーグ・ステーキを軸にした彼の行動から見えてくる。
青春の1ページが綺麗に切り取られている。

ハンバーグを食べることで自分の理想を思いだすけれど、それは若い日の一時の青い経験であり、振り返ると理想よりも利益を取った方が利口であったとも思うのだ。

*冒頭に書かれている主人公の男性が書く手紙の中のハンバーグ・ステーキには、ハンバーグ・ステーキに対しての愛情も感じつつ、やはり“なになに風”(ハンバーグ)という表現の文章は、何か裏を感じつつも可笑しい。
それは若い彼の食欲が旺盛なためだ。

【“ごく単純なハンバーグ・ステーキ”から連想されたこと】

子供の時のレストランでハンバーグ・ステーキを食べるという憧れが、いつの間にか大量生産から安く沢山食べられるようになり、大人になると当たり前の料理になり、似ているものに置き換わっていても気が付かない。

そして慣れて味の区別が出来なくても美味しいと言って食べるようになる。彼の前にはそんな将来がすぐ目の前に来ていた。

主人公はその入り口に立っていたのではないだろうか。
「ごく単純なハンバーグ・ステーキ」にはそういう若い日の“純粋で単純な一面”が表現されていると思った。

*最後までお読みいただきありがとうございました。