伊能忠敬-銚子犬若での富士山の実測一部始終-ちばらぎ銚子

伊能忠敬が、銚子測量をした時のことについて調べてみました。

【伊能忠敬】

江戸後期の地理学者・測量家。上総(かずさ)の人。下総(しもうさ)佐原の伊能氏の養子。高橋至時(よしとき)に西洋歴法を学び、幕府の命によって蝦夷(えぞ)を始め全国を測量し、わが国最初の実測地図を作製。著「大日本沿海輿地全図」「輿地実測録」など。
出典:広辞苑第六版

『千葉県の生んだ世界的測量学者、佐原の伊能忠敬は、幕府の測量方として、寛政13年 (江戸時代後期1801年)(2月5日に享和と改元)7月18日、房州から九十九里沿岸を測量しながら我が銚子に入った。

銚子港飯沼村

今の旭市飯岡・下永井・上永井・小浜・辺田村を経て銚子港飯沼村東町着き宿に入ります。
宿泊したのは田中玄蕃の分家で、ここから日夜測量をしました。
忠敬は病気だったようで、2~3日仕事を休んでいます、佐原など遠くから見舞客もありました。

7月18日は晴天でしたが、19日は高神村犬若岬から測量を始め黒生まですすむも、午後から白雨(にわかあめ)があったり、20日は午後から大雨、21日22日も大雨に当たっています。
梅雨の時期、特に銚子の雨は風も交じってくるのでとても作業になりません。
今までの測量を整理・下書きしたりしていたようです。

23日から晴れましたが、海面上を「もや」がただよっていて遠測が出来なかった。
海岸は天気に左右されます。
25日には日中は太陽を測り、午後は筑波山・日光山などを測っています。

26日も晴天で犬若岬より慶助富士山を測ることに成功して、みんなで喜んでいます。

19日から富士山の方位を測ろうとしたが海面のもやが多くて、見ることが出来なくて苦労していたようです。

【もや】①大気中に低く立ちこめた細霧・煙霧など②かすみ
広辞苑 岩波書店刊より引用

常陸国鹿島郡の波崎へ

忠敬の病気も回復してきました。

27日は晴でやはり海山共にもやが多く、六ツ半後銚子港飯沼村を出発して、利根川を越えて常陸国鹿島郡東下村之内波崎に至る。矢田部村に泊まっています。
銚子港飯沼村を出発して、利根川を越えて常陸国鹿島郡東下村之内波崎に至る。矢田部村に泊まっています。

ここより常陸・石城(いわき)と測量をつづけ、9月8日には陸前国分ヶ浜に着いています。(陸前=旧国名、大部分は今の宮城県)
ここで泊まった家が24年前の旅の途中で一緒になった商人で秋山惣兵衛という人でした。
銚子に取引があってたびたび銚子には行き来していたという。(銚子港と東北は、早くから物流交流が盛んでした)

忠敬も以前旅で出会った人と24年ぶりにまた一緒になるという奇縁には驚きました。
会うことでその温かい人情に接し、厳しい旅を続けている伊能忠敬の気持ちも和らいでいたであろうことが推察できます。
人の出会いは縁、別離と再会のドラマがありました。

話を銚子に戻します。
伊能忠敬が犬若で富士山を実測したことで、初めて銚子の近代式地図が出来上がったのでした。

*「銚子市史」
編者 篠崎四郎  発行者 佐藤今朝夫
発行所 国書刊行会 より引用・参考にしました。