紫式部はイワシが好きだった-「イワシのミニ知識」栄養ことわざなど

イワシは江戸時代の社会を支える魚だった

宝永6年(1709)に加賀国の鹿野小四郎が書いた『農業遺書』にイワシのことが書かれています。

魚ではイワシが役にたつ。
どのような山の奥までも広く行き渡り、ヒトを養い、穀物を育て、価値が高くて数の少ないコイやフナよりも優れている。
それゆえにイワシは「仁魚」といえる。

*「イワシとニシンの江戸時代」武井弘一編 古川弘文館刊より

江戸時代に農村はイワシを肥料として頼っていた。

農民は主に自給肥料を使っていたのだが、腐熟するまでに時間と手間がかかった。
それに比べて江戸中期に使われ始めたイワシ(干鰯)は、買うだけで持ち運びが楽というメリットがあり・使い勝手がよく、自給肥料にくらべて使用量も少なくて済んだ。
17世紀後半に新田の開発が盛んになったこともあり、外から干鰯を仕入れる方法がひろがった。
農業が効率よく出来るようになり収穫量も増えました。
(一方人や家畜の排泄物肥料に比べて干鰯はカリウムが不足していて土質が悪くなるという弊害も生んだ)

イワシなどの不漁が続くと、魚肥の生産量が減少して魚肥が高騰しました。
百姓も経営を圧迫、肥料が不足することで畑も荒れて凶作、飢餓を生む環境になった。
この時代は魚の不漁が社会不安に連鎖していったのではないかと推測されています。

近年になってイワシは地球の気候や生態系の影響を受けて、数十年単位で増減を繰り返していることがわかってきました。
江戸時代イワシは人々の生活と農業に大きな役割を持っていたので、その不漁は社会に大きな影響がありました。

イワシの頭は鬼を払う

イワシの頭は、年四回ある節分(立春・立夏・立秋・立冬の前日)に、ヒイラギと共に門口に差すことで、邪気が入り込むのを防ぐ大きな役目を古来から果たすとされている。
現在は立春の前日の節分の日のみこの習慣が残っている。
*イワシは昔の人々にとって特別な魚でした。

イワシのことわざ

『いわしで精進落ち』
(いわしで精進明けを祝うように)折角がまんしてきたのに報いられない、つまらない。という意。
『いわしの頭も信心から』
鰯の頭のようなつまらないものでも、信仰すると、ひどくありがたく思える。
『鰯網で鯨を捕る』
おもいがけず収穫や幸福を得ることのたとえ。

*広辞苑第六版などから引用

最後に

イワシは日本では昔から「仁魚」といわれたほど、庶民の食に肥料に大切に使われていました。
人々の命を支えたり・邪気が入ることを防いだり“役立つ魚”でした。
とれる時期によって名前が変わったり“愛される魚”でした。

イワシについて色々知ることで一層好きになりました。
美味しくて健康にもいいので食べ続けたいです。

*最後までお読みいただきありがとうございました。
このブログでは、他にも銚子漁業関連の記事を書いています。
よろしかったら読んでみてください。

*「紫式部とイワシ健康法」永山久夫著より一部引用しています。
「イワシとニシンの江戸時代」武井弘一編 古川弘文館刊より引用、参考にしました。
「銚子半島の歳事風俗誌」大下衛著、東京文献センター刊、「銚子の歴史と伝説」秀英社刊、
「7つの銚子ものがたり」銚子資産活用協議会刊を参考にしました。