忠節な藩士-画工へ険しき道「渡辺崋山」ドナルドキーン著-感想-1

*「渡辺崋山」ドナルドキーン著を読んで、渡辺崋山とはどういう人だったのかを調べました。
この記事は、田原藩江戸詰め藩士としての崋山と下総国への旅までの物語を追っています。(注)一部自分なりの解釈を入れています。

*少々長くなりました。時間がある時に読んでいただけると嬉しいです。

【渡辺華山(1793-1841)】

「渡辺崋山」ドナルド・キーン著
「渡辺崋山」ドナルド・キーン著

幕末の南画家・洋学者。名は登。三河田原藩の家老。幕末の政治家で文人画家でもあった。
儒学を佐藤一斎に学び、蘭学にも通じた。西洋画法を取り入れて南画風の独自の様式を完成。鋭い筆致で写実的な肖像画に優れた作品を遺す。尚歯会を結成し、攘夷の非を責めた「慎機論」を著わした。蘭学者と海外研究を進めたが、1839年に蛮社の獄に連座、郷国に幽閉。自刃した。
*蛮社の獄とは蘭学者を弾圧したもの。

広辞苑第六版

家の困窮に苦しむ

崋山の父“渡辺定通”は田原藩江戸詰めに勤務していた。
渡辺崋山は、寛政5年(1793)江戸城の半蔵門外にある田原藩邸内の長屋で生まれた。江戸で育った。

田原藩は貧乏であった、ゆえに定通は上士階級にもかかわらず俸給はわずかで、母、妻、8人の子供を養うには十分ではなかった。

崋山の弟や妹たちは養子に出るものもいれば、行った先で死んだものもいる。 母も不幸な宿命であり痛ましかった。

父の定通は20年間にわたり病にくるしんでいた。崋山は時間のある限り父の看病に時間を費やした。

崋山は困窮の中、武士の子弟としてはあたりまえであった儒教の四書を学び、手習いを修め、和歌や日本の物語に親しんだ。

【四書(ひっしょ)】「礼記」中の大学・中庸の二編と、論語・孟子の総称。五経とともに儒学の枢要の書。

田原藩の事情

三河国「田原藩」位置図-江戸幕末-藩史大辞典第4巻より
三河国「田原藩」位置図-江戸幕末-藩史大辞典第4巻より

【田原藩】三河国(愛知県)渥美半島の中央部に田原周辺の20ケ所余の農漁村を領有した譜代小藩。三宅氏の時代は代々家康の康字を拝領した譜代名家であった。ただ一万石級の城持大名で、知行高に対して藩士数(350名以上)が多かった。藩地は僻地であり海岸に面する場所であったため風水塩害などに悩まされた。そのため常に財政窮乏で苦しんでいた。

幕末には多くの藩があらたな理由で困窮していた。
主な理由は、米中心の経済構造が貨幣経済の発展に対応できなくなったこと。(米価が安値で推移し、貨幣収入の確保が困難になっていた)
参勤交代による出費、地震や飢饉などの災害復旧費用、幕府から命じられる手伝い普請(公共事業への動員)などの多額な支出にありました。

藩に務める武士の生活も大変でした。
江戸に居住する武士(特に旗本や御家人)は消費者とならざるを得ず、「札差(ふださし)」など商人から借金することもありました。

*商業資本の台頭で経済の実権が大商人に移り、幕府の支配力の低下が起きていました。これらの問題に対し、多くの藩は倹約令などで財政再建を図りました。

貧しい生活下、絵との出会い

崋山には小さい時から画ごごろがあった。
同藩の平山文鏡に画技の手ほどきをうけている。

父定通は高名な画家の弟子である金子金陵(きんりょう)が田原藩主の親戚の家来であったことを思い出し、 崋山を弟子にしてもらえる様に頼んだ。

崋山は16歳で金子金陵(きんりょう)の弟子となり、文化6年(1809)17歳のときに谷文晁の門に入る。

藩士高橋文平から「画家になれば、家計の窮状を救うことができる」という助言を受け、一家を助けるために画をたくさん描いた。

画は中国画の模写や蜻蛉(とんぼ)や蝶々、昆虫を写実的にとらえたものだった。

半紙さえ十分に買えず、・18歳のときに初午(はつうま)燈籠の絵を描く仕事を見つけ、凧の画、春画まで描いた

朝から晩まで働きつづけ、絵を描いても売った代金で紙と筆を買いそろえた。そのため学問の方はしたくても時間がなかった。

この時、崋山は人生の大きな目標として“天下第一の画工となること”に決意を固めたのだという。

【谷文晁(たにぶんちょう)1763-1840】
江戸後期の画家。江戸の人。白河楽翁の遇を受け、「集古十種」の挿絵や「石山寺縁起」の増補を描く。南画に北画風を加え、また大和絵を能くし、洋画の法をも学んだ。諸国を巡歴して写生的な風景画をつくり、肖像画にもすぐれた作品を残す。

藩士ゆえの転籍、ピンチをチャンスに

崋山は江戸から藩地である田原へ移ることになっていた。

それは江戸の文人仲間と別れるということで、江戸で天下一の画工になる目標を断念せざるをえない事であった。
加えて田原での半島の生活は蘭学者ら知識人との交流がなくなることを意味していた。崋山は人生のすべてを塞がれるピンチにあった。

この時に画を素早く仕上げる技術を身につけた。のちの下総への旅のスケッチに生かされている。

中国文化の影響下、本質をもとめる

彼の肖像画は、『対象である人物の性格と肉体的な特徴を両方とらえた』という点で、それまでの中国文化の影響を受けた肖像画とは違っていた

*鎖国政策が文化に影響していた。
鎖国とは寛永10年(1688)16年にかけて発布された布告で、日本人の出国ならびに外国人の入国を禁じ、これを犯すものは死罪とされた。長崎出島に限り一握りのオランダ商人は例外だった。

鎖国時代の日本文化に影響を与えたのは古代中国だった。それは漢文や儒教などであり、日本の画家が作品の主題として描いた。中国の英雄や賢者であり、風景は中国で見られる岩肌や荒涼とした山々だった。

*17世紀以来とってきた鎖国政策のため多くのヨーロッパ人にとって日本(江戸)に関しては無知であり、興味の対象ではなかった。

そんな時代だが崋山はヨーロッパ様式の肖像画を描いた。
のちに大家と呼ばれるようになる。)

その後も崋山は中国様式で中国の伝説などを描いている。

蘭学が入り文化に変化、幕府の警戒

日本における中国文化の影響は大きかったが、新たな外国の知識がオランダ人シーボルトらの蘭学により入ってきた。

【蘭学】
江戸中期以降、オランダ語によって西洋の学術を研究しようとした学問。
享保(1716-1735)年間、幕府の書物奉行・青木昆陽が蘭書の訳読をしたのに始まり、前野良沢・杉田玄白・大槻玄沢ら多数の蘭学者が輩出。(シーボルトの寄与は大きかった。)医学から数学・兵学・天文学・化学などの学術にまで及んだ。

広辞苑第六版より

初めに中国の至高性への信念に疑問符をつけたのは解剖学だった。

日本人の手本は中国の医書でそれに親っていたが、医師杉田玄白(1733-1817)が解剖を行ない始めて、西洋のものと中国の医君の挿絵との違いがあることを知った。オランダ解剖書が正しいという理論に達した。このオランダ書物を翻訳することに4年をついやし完成した。(検閲制度に触れて発禁なるのを恐れた。江戸と京都御所に了解を得ることで出版に成功する)

この「解体新書」から「蘭学」は始まった。 オランダなど海外から学ぶこと、特に中国以外の国から世界を知ることの大切さを得たのである。

崋山が蘭学に興味を持ったのは天保年間(1830-1833)ではないかと言われる。

藩士として、階級に関係なく人間を描いた

それでも崋山は江戸田原藩邸での務めをしっかりはたした。

時間があれば、四書五経を読んだり、 儒教を真に理解することが、武士としても人生としても大切だと考えていた。

崋山は時間のある限り絵画に打ち込んだ。

文政元年(1818)には、大作「一掃百態」をわずか 「1日2夜」で完成したという。(一掃百態は32菜の袋冊子であり、風俗画で江戸の生活を描いたスケッチである。武家から小商人、下仕事をする人などあらゆる階層の人を描いた。

※ 【一掃百態】は、徳川幕府が衰退していく時期の江戸の人々の生活を生き生きと描いている風俗画で他にはない作品。(年々評価が高くなり重要文化財に指定されている。)

文政5-6年(1822)ごろには、洋書のさし絵などからその技法を読みとり、肖像画や風景画にもとり入れた。

普段よりスケッチ用の冊子を持ち、時間があれば眼にするものを模写することを常としていた。 (多作が崋山の画家としてのベースを形づくった)

おなじ人間としてリアルに描いた。詩趣をもって描く文人画や、官能美を求めた浮世絵とは一線を画していた。対象を素早く捉えることにたけていた。

信念の強さが絵に残っている

20代の崋山の画は文人画だが、琳派風(りんは)や沈南蘋(しんなんびん)などいろいろな影響をうけている。そのころは中国文明に関心もあった。

文政4年(1821)には肖像画の傑作といわれる儒学者「佐藤一斎」の肖像を描いている。

風貌のみならず、儒教に対する信念の強さを伝える。そのために対象を似て描くことに集中し、 人物の個性の再現を理想としていた。
(それまで日本の肖像画は顔がどれだけ似ているかは本質的ではなく関心も持っていなかった)

崋山は一斎像を完成するまでに少なくとも11枚は描いているという。

肖像画については師がいるわけではなく、西洋に影響を受ける時代よりも前でどこで学んだのか不思議だった。
一斎像は華山の画への真摯な取り組みの結晶なのかもしれない。

崋山の残した画業は肖像画にあるともいわれる。

江戸詰め、旅には理由あり

崋山の紀行文にも素晴らしいものを残している。
挿絵入りで大変魅力が有る。 初期の旅日記は漢文で書かれていたが、のちに和文を使い詩的になっていった。

崋山は江戸詰め藩士の為、勝手に関東地方を出ることはなく、出る時には愛知にある田原との往復に限られた。
いずれにしても武士の旅は、必ず理由があるものであった。
崋山は旅先の勤めの間でも出会った人や素晴らしい景色を残している。

*文政4年(1821)に描いた「遊相記」は、田原藩藩主の弟三宅康明に同行した“藩の仕事・旅の記録”である。田原から戸塚宿へ、鎌倉、金沢、江ノ島などを廻った。この旅は、将来田原藩生になるであろう康明(やすてる)に、日本の歴史を教える目的があった。

こののち崋山は藩政にかかわりを強めることになる。

下総国へのスケッチ旅、日本の郷愁を描く

文政8年(1825)に下総に出かけ「四州真景」を描く。旅先で出あった人々の名前や途中の土地の特徴を記した文章で構成されている。

「四州真景」は紙に茶、緑、青、赤の四色で描かれている。
草原のスケッチ(釜原)、中川の河岸にある船番所、風景、潮来の遊郭、銚子の町並み (瓦屋根や茅葺屋根)、町奉行やしき、海辺の大きな岩(浦中) など「四州真景」に描かれた30図は崋山の多才な画力を示していた。

「四州真景 新町大手町奉行やしき」渡辺崋山画
「四州真景 新町大手町奉行やしき」渡辺崋山画

郷愁ある下総の風景を切りとっていた。

それまでの望まれて描いてきた、花や鳥、中国の風景などとは違う。生き生きとして、崋山にとっても刺激ある画(スケッチ) だった。

旅に立つ前に、崋山は“上等な紙”を用意して出かけた。そのため彼の筆致がきれいに残され素晴らしい作品となった。

当然目的ある旅だった。海外に対しての知識(海防など)を勉強をする目的があったのだろう。その一方で絵を描くための準備もしていた

時間があれば風景をスケッチする”のは彼の生き方だった

彼は貧しい生活のなか儒教を学び、模範的な藩士として勤めを果たして出世した。時間をつくり技術を高めて来た画も上手くなり夢に近づく。
それは幼少の時にたてた『天下一の画工』になることであった。

崋山は33歳、才能が開花する直前の旅だった、下総国の旅。

自己実現への道半ば

崋山は時間を作り夢への階段を上りつづけていた。藩への忠誠心を忘れず勤めを果たしながら‥。

彼は小さい時から画に才能があった。よき師に出会い、貧しさから画を描くことを始め、良き師に出会い次第に生計をたてたいと考える。

最終的には画で自己実現しようと。

文政6年(1823)崋山は藩の取次格和田伝の娘たかと結婚する。(のちに3人の子供をもうけた。)
文政7年は父が亡くなり家長となった。この時に蘭学者「松山慊堂」や「鈴木春山」と知り合っている。

文政8年(1825)に外国船など海防への勉強目的で下総国に旅立つ。知識人から知った事件は驚きだった。海外の学問に興味を持っても、太平洋側の地域で外国船についての話を直接聞いたのは初めてだったのかもしれない。

画においては、佐藤一斎、松崎らの大儒について漢字をおさめ独自の画風を確立し、江戸において第一級の画家と呼ばれる。

外国船来訪の事件から田原藩の海防を心配する。
さらに旅がすすむにつれて崋山は日本の将来を真剣に考えた。

芸術家である彼の感受性は繊細であるが故に熱くなる一面がある、それも彼の性格にあった。

許されなくなった旅

崋山は制限多い江戸詰めから三河国・田原藩に移る。
文政10年(1827)藩主康明が死去し崋山は後継ぎ問題などに巻き込まれる。

天保3年(1832)崋山は家老への昇格を進言されるも一度は断る。崋山は絵での成功を望んでいたからであったが、藩は厳しい状況であり、それを許さなかった。

天保3年(1832)に相模国厚木(今の神奈川県)に行ったときは大名の不正や癒着などを耳にして田原藩との違いを知る。

夜には地元の人々(坊さん含む)と交流している。支配者階級・武士の一人でありながら傲慢さは無く対等に付き合った。その人柄を地元の人々に認められた。

崋山は家老となったのち、天保4年崋山は財政打開のために藩士給を格高分合制に改革。天保7-8年(1836)は飢饉で苦しむ農民らへの救済施策を成功させた。

【天保の飢饉(1833-1839)】冷害や長雨による凶作が続き多数の死者を出した。米価高騰で各地で打ちこわしや一揆が頻発した。

それでも彼は多様性に富んだ江戸の人々の生活を絵として残している。

幕府の力が衰えを見せる、災害も度重なる厳しい時代。天保8年(1837)大飢饉の真っただ中でも気力を振り絞りながら絵を描き続け、崋山は藩家老として施策を行い成果をのこす。

かしある事件(蛮社の獄)がきっかけで歯車がかみ合わなくなる。
彼を待ち受けていたのは自死。あまりにも不幸な運命だった。

※この記事は渡辺崋山の下総国の旅から田原藩へ戻ったあたりまでの物語です。本はこの後の崋山の人生を最後まで書いています。

「渡辺崋山」本の感想

渡辺崋山の人物像が丁寧に描かれていました

「渡辺崋山」は、冒頭に崋山の絵を載せるなど、ドナルドキーンさんの渡辺崋山に対しての敬意を感じました。

彼の絵についての描写も沢山あり、藩士としての崋山のみならず彼の芸術性の高さを認め書いています。

伝統的な日本の絵と崋山の絵との比較をしているので、幕末の日本における文人画など文化の解説としてとても面白かった。

この本は最初英書として出版、のち日本語に訳された本です。
キーンさんは日本の文化を世界に発信した。幕末についての興味もあったでしょう。外国出身の作家さんの視点は時代の雰囲気をつかんで新鮮でした。

幕末という変化の時代に、崋山という悲運な画家をとおして武士はどう生きたか?を捉えたかったのだと思いました。

*この本「渡辺崋山」は、この記事以降から天保10年に起きた「蛮社の獄」までを丁寧に書いています。興味のある方は是非手に取ってみてください。

ドナルド・キーン(1922-2019)】アメリカ合衆国出身の日本文学の世界的権威、文芸評論家。日本文化の欧米への紹介など多くの業績を持つ。

*最後に「幕末の絵の変化について崋山が弟子に語る一節」をご紹介し終わりにします。

蟄居した崋山に対して弟子である椿椿山は質問をしている
「山水画は空虚ではないか?」という問いに対して崋山はこう答える。

絵画は、最初は人を教え導くものだった。見るものを奮起させ、意欲を偉業へと駆り立てる一助となった。しかし風景画の登場によって山水画の役割は小さくなった。」それは画家たちが彩色画の代わりに墨一色だけを使うようになり、作品をリアリズムから遠ざけたと。
「山水画は面白さを失っている」と伝えたという

(*私は時代の変化に対応できないものを象徴していると思いました)

「渡辺崋山」より一部引用

*「渡辺崋山」ドナルド・キーン著 新潮社刊、本の感想でした。最後までお読みいただきありがとうございました。
【注意】一部は自説を加えた(推測含む)文章になります。