*この記事は前回「渡辺崋山」ドナルドキーン著を読んだ感想になります。
ここから後半『なぜ渡辺崋山は自死を選んだのか?「蛮社の獄」不忠不孝の意味』です。前半を読んでいただけるとより分かりやすくなります。
(前半はこの記事の一番下にリンクを貼ってあります)
【蛮社の獄とは】蘭学者を弾圧したもの。
広辞苑第六版、日本近世人名辞典より
1837年 アメリカの日本人漂流民をのせていたモリソン号が浦賀へ来航した際に、幕府は異国船とみなして砲撃して追い返しました。
崋山らは、この幕府の対応と鎖国政策を批判する文章を発表しました。
友洋学派の目付(密偵?)、鳥居耀蔵(ようぞう)の告発により崋山らは捕えられた。天保十年五月に崋山は投獄され、同年十二月には在所蟄居を命ぜられた。
【蛮社とは?】西洋の学問(蛮学)を学ぶ仲間「蛮学社中」 を略したもの。
文政7年(1824)は父が亡くなった頃であり崋山にとって節目となる年でした。(翌年の文政8年に下総を旅しています)
後半では、崋山が江戸から田原に引っ越す直前あたりから話を始めます。
蘭学と出会い、西洋画を意識
文政7年(1824)に父が亡くなり、崋山は家長となった。この時に蘭学者「松山慊堂」や「鈴木春山」と知り合っている。
崋山は幼少より画家になることを志してきた。絵の道が自らを生かす道と心得ていた。文政9年(1828)オランダ人と交流し線画を残している。
天保元年(1830)には西洋科学が宇宙の基本原理を解明できることに興奮、絵画の技術も聞いた。
西洋との出会いによって絵の世界も変化していった。
天保2-6年頃は旅に出て絵を描くことも出来ていたが、老中になり藩の問題を解決することに忙しくなり絵を描く時間はあまり取れなくなる。

崋山は西洋の教育制度に驚いた
天保3年(1832)崋山は長英と出会いオランダ書物の翻訳を頼んだ。崋山は役立つ知識を得た。
それはオランダ人ニーマンの日本に滞在しての意見だった。
(天保9年(1838)に崋山はニーマンと日本人との問答をまとめている。)
*【ヨハネス・エルデウィン・ニーマン】オランダ商館長。
ニーマンは「日本は従者数の多いことは世界一、わずらわしく何が得なのか?
自ずと日本の制度についても推測できる。」と意見をのべている。
そして「200年もの間、戦争をしないでいること、こんな平和な国は他にない」と褒めている。
さらに「ヨーロッパは不安定な状況なので科学的な発見や海外への領土拡大をし発展してきたが、日本は平和を謳歌する国であり、(変化は)無理だろう」ともいった。
崋山がニーマンの話で最も惹かれたのは、西洋諸国の習いであった。
学問はいろんな部門にわかれていて、教道(神学)、芸学(科学)、工学(技術)に分かれて、それぞれ学校があり勉強をすることができるという点であった。
国民すべてが各目の努力が報われることを知っていて、努力・精進ができるようになっている。そのため、独善的な考えや偏見をもつ者はいないという。
(崋山はヨーロッパの自分の望んだ教育が受けられて、望む職に就くことができる環境、そんな自己実現が可能な国を羨ましく思った)
ヨーロッパの生活条件は日本よりも優れていて、 “日本の封建制度のあり方”についても考えたのだろうか?
崋山が海防問題に熱心になったのは、天保3年(1832)に田原藩の年寄役末席(老中)に昇格し、海防事務係になってからだった。
天保8年:モリソン号事件からの一部始終
天保8年の「モリソン号事件」とは、(1837年)浦賀に米国船モリソン号が対日通商を求めて渡来し、砲撃を受けて退去した事件。
モリソン号砲撃事件を知って崋山は天保9年(1838)に『慎機論』を書いた。
海防事務係を担当してきた崋山にとって「モリソン号砲撃事件」はショッキングなことだった。外敵に対する防備について危機感を覚えての文章だった。
(天保10年(1839)9月、崋山は、高野長英と「尚歯会」に出席した時に、日本人漂流民を送置するために渡来するモリソン号に対して、打払合を適用して撃援しようとする計画を知り驚いた)
*幕府は西洋から入る蘭学などの知識に神経をとがらせていた。
18世紀後半における蘭学者の数は多くはなかった。 長崎の通詞は別にしても、せいぜい100人位だったといわれる。
天保9年:崋山の不幸の始まりは小事件だった
天保9年(1838)に儒学者安積艮斎(ごんさい)の新築祝いの席上で、崋山は諸外国に関する知識を雄弁に語った。
かたわらで聞いていた林式部(のちの鳥居耀蔵)は、 それを冷笑し不快に思っていた。
(林家は正統儒学の本家で、蘭学に対して憎しみをもっていた。 崋山が儒学者安積艮斎の家で外国の事を雄弁に話したことは、鳥居には気に入らなかった。)
崋山の言動は一部の儒学者たちに対して、西洋に関しての興味を増す影響力があった。この日の崋山の振る舞いは、林家(鳥居)を怒らせ、崋山は裏切り者とみなされた。
(崋山は自分ごとでなく日本の将来を心配し、外国の事物を学ぶことは日本のためになると思ったのだろうが‥)
崋山は、西洋文明に好感を持ち(特に感心したのは教育であったが)、キリスト教を世界の五大級のひとつに数えた。 (キリスト教が危険なものという説に疑問を持った。西洋の先進的な側面に眼を開かれ、キリスト教についてもっと知りたいと思うようになった)
宗教についても是認するように発言したのも正統の儒学者と乖離していた。 (反対であった)
鳥居耀蔵は、崋山が蘭学を好み、高野長英や小関三英と同様に、幕府を批判したことを書き、その告発状を老中水野忠邦に提出した。
*【鳥居耀蔵(とりいようぞう)1796-1873】江戸時代の幕臣、旗本。幕末の悪者行とも呼ばれる。
【高野長英(1804-1850)】幕末の蘭学者。長崎でシーボルトに蘭学を学び、江戸で町医者を開業。米船モリソン号来航につき開港論を唱えた。
【小関三英(1787-1839)】 出羽庄内藩足軽の次男、仙台藩の医学館教授。江戸でオランダ書の翻訳や教授。
天保10年:崋山に対して幕府批判の容疑がかけられた
天保10年(1839)5月、崋山は、江戸北町奉行所への出頭を命じられた。牢房に入りとなった。
崋山は告発に当惑したが、告発者の裏に鳥居がいるという確信を得る。
(崋山は獄中から絶えず母親に心配をかけていることを気にやんで苦しむ)
崋山は政事のことを論じてはいないとした。しかし自宅にあった『天保9年に書きかけて残っていた慎機論』を発見されてしまう。
『慎機論』は感情の高ぶりに任せて書いたものだった。
『慎機論』は、モリソン号砲撃事件を知った直後に書かれた。
モリソン号砲撃という非人道的な行為を非難したというよりは、“外敵に対する防備の要請であった”。 田原の防備に関する考察から始まり、敵の情報を精査して対策しないと防備にならないと考えていた。
(ただ崋山の“日本の領海に外国船が入ったことで狼狽して書いた”と主張には、事実誤認も含まれていた。)
崋山の文章には、幕政(体質)を“井の中の蛙”と称していたので、愛国心から書いたというのは欺瞞ととられた。北町奉行大草を納得させるようなものではなかった。
崋山とらわれの身となる
崋山は、とらわれの身となった。
親交のあった人たちは嫌疑を恐れ離れた。
皆崋山と無関係であると証明するために必死になっていた。
弟子である崋山を見捨てたかったのは「松崎慊堂(こうどう)」だったのだが、崋山の自供内容などから重罪はまぬがれないと思った。松崎慊堂とて友人弟子と同様に口をつぐみ待つしかなかった。
判決はなかなか下りなかった。牢房の中で崋山は重い疥癬(かいせん)をわずらい死の瀬戸際に立つほどだった。
*【疥癬とは】ヒゼンダニが人の皮膚に寄生して起こる皮膚の病気。
天保10年(1840)に老中・水野が崋山に下した判決は、崋山に “田原での蟄居を言い渡した。
*【老中とは】幕府の最高職。【蟄居(ちっきょ)】とは自宅に閉じこめられること。
寛大な判決だったのは、高齢の儒学者・崋山の師である松崎慊堂(こうどう)が水野に宛てた上申書「赦免建白書」があったからではないかと言われている。
*【松崎慊堂(こうどう)1771-1844】昌平黌(しょうへいこう)に入り、正統朱子学の信奉者である林述斎に学び、掛川藩藩校の教授など、隠退後江戸で私塾を開いた。崋山は慊堂を師と仰ぎ尊敬していた。
田原での蟄居命令、江戸から田原へ
崋山は江戸を出る直前に、松崎慊堂に深く謝意を表している。
愛知の田原に着き、再度「松崎慊堂」に手紙を書いている。
それは、洋学の知識に惹かれた自分が「井の中の蛙」であったことに気づいたこと、諸外国と日本を比較する事が幕府の怒りをかうに違いないと知っていたことだった。
さらに手紙では、地に足がついた現実的で西洋の学問を捨て、東洋の形而上学の高みに昇るつもりであることをしるした。
(崋山は方向転換しないと生きることはできないと知った)
天保11年:母への孝行
妻と子供ら家族に再会し喜ぶ。田原藩から不十分ではあるが扶持をもらい落ちつきをとりもどした。
*【扶持(ふち)】とは武士に米で与えた給与のこと。
それは束の間、自身は病気で苦しみ、母は古稀(数えで70歳)になろうとする年齢で、借金もあったので生活は厳しい。弟子からの補助をもらい生計をたてる身の上だった。
(崋山は自分の落ち着きのないゆえに、江戸での生活が長くてもこの立場にあると反省した)
崋山は自分で金を稼げる方法は、画を描いて売る以外になくなっていた。
藩内の政敵らが蟄居の身にふさわしくない行為として非難するであろうことも知っていたのに、崋山は描くことを運んだ。
絵の制作年を偽り、投獄される前に描かれたものとして売ることを選んだ。
振り返ると崋山にとって画を描くことは人生最大の目標で、生きる糧だったこと。 久しぶりに弟子の福田半香と画を描くことで新たな喜びがあった。
(崋山は少し自分を取り戻しつつあった‥)
天保12:あまりに悲しい別れ
崋山は風聞で、老中・水野忠邦の使い小田切が田原に来ると聞いて、慌てた。
小田切が田原にくる目的は崋山でなく別だったのだが、崋山が恐れたのは、画の売買を黙認してくれた田原藩主に責任が及ぶことだった。
自分のことで主君の平穏を乱してはいけない。
唯一の方法は、「自決して罪を償うこと」と崋山は確信した。
天保12年10月11日崋山は、近くにいた母の隙を見て、自宅横の納屋にて自決した。
崋山の水画は、死後も人気があったが、著作を集めた選集が出たのは明治43年(1910)でした。
日本は開国して年月もたっていて、崋山の政治思想家としての重要性を世間に問い、再評価されていました。
*椿椿山を除いては、かれの技法(西洋画)を受けついだ者はいない。幕末に維新を起こした者たちに影響を与えたわけでもなかった。
しかし今日崋山は徳川時代最後の画の大家として認められるようになった。
(椿椿山の描いた崋山像だけが彼の面影を残します。)
*【椿椿山(つばきちんざん)1801-1854】江戸後期の文人画家。
谷文晁、渡辺崋山に師事した。花鳥画・文人画と得意とした。
【最後に】崋山という人
崋山は生涯にわたって儒学を学び、その教えを崇敬していた。
崋山の田原藩に対する忠誠心は時代遅れではなかった。
(今となっては武士の理想姿だったとはいえないが。)
絵の才能はあったが、崋山は子供のころから親の貧乏を助ける為に働いた。絵は遠い目標であった。
崋山は藩政に時間をついやさなければならなかった。外の世界を拡げるための学問の勉強にかけるお金もなく、時間も与えられていなかった。
しかし各地で今おきていること知りたいという意欲は衰えず、蘭学を学び西洋に追いつくことが必要だと思っていた。
(下総に遊覧していても、知識欲は変わらない。つてを通じて友人や知識人から智恵を吸収した。)
一方、外国の知識が優れていることを知り、“西洋画の知識”も得たかった。それは“個人的な事で武士として自分勝手なものではなかった”はず。
貧しい家に生まれ育ち、藩政の傍ら“自分が身を立てる方法”を常に考え、“画を描くという唯一の方法を努力の末に身につけた”。
にもかかわらず、運命に翻弄されて、逆に田原藩の面目を潰しかねない事態をまねく。(渡辺家の持つ宿命は藩を守ることで、それに忠実であったのに‥)
(投獄されて、心が動機する中、手に入れた唯一の才能を維持し・手放したくないために“謹慎中に絵を売るという不用心なこと”をしてしまう。
結果的には藩を危機にさらす事になった。)
勉強し藩のために勉強し役立てようとした知識が、誤解を受けて通報され罪せられてしまう。
もしこの時代に外国船の来訪が頻繁でなく、幕府が神経をとがらせていなければ、崋山は投獄されることもなかったと思うと、彼の自己実現や大きな目標とはズレていた、それだけに彼の無念さは図るべくもない。
“この人格、精神を持っていても時代にあらがうことはできなかった”
崋山の本意と違うところで、彼の執着や旅は終わりをつげる。
崋山が自ら選んだ自死は、言い訳を良しとせず、“藩主の心を煩わせさた罪に対する償い”だった。それは武士として自ら決めた事だった。
(近代的でない逆の旧時代的な行為だとしても。)
不忠不孝の意味とは?
崋山の遺書には「不忠不孝」の文字がある、自分を指して書いたのだという。
推測ですが、「不忠不孝」とは、藩の仕事を途中でなげだすことになってしまったこと(不忠)と、老母(70歳台)を置いて先に息子がなくなることに対して、母へのお詫び(不孝)を伝えているのだろうと思いました。
崋山の気高い人格は誰もが称えていました。天保10年に「蛮社の獄」の際の告発状を捏造した役人できえ、崋山には人を惹きつける魅力があると認めていた。
華山の波乱に満ちた生涯と悲劇は、時代が明治になって再検証された。
今残っているのは、彼の藩士、武士としての姿勢、その心のすばらしさだ、そして時代がたつにつれて画が崋山の名声を高めている。(彼の本当の姿を隠して)
彼は絵で自己実現するために努力を重ねた。あと数十年生きられれば、近代的な世界が近づき、希望も見えたのではないか思いました。
*「渡辺崋山」の物語を数冊読んだ後に、再度下総国銚子で描いた風景「四州真景」を見かえしました。その旅は『彼のいい時代であった』のかなと思いました。
*最後までお読みいただきありがとうございました。
「渡辺崋山」ドナルド・キーン著、日本近世人名辞典、「渡辺崋山」佐藤昌介著、吉川弘文館刊。「武士の仕事」歴史REAL編集部編、洋泉社刊、「江戸の人になってみる」岸本葉子著、晶文社刊などを参考にしました。