銚子電鉄物語1-廃線危機-役割変化-ちばらぎ銚子

時代によって鉄道の使われ方は変わります。
銚子電鉄の歴史を見ると改めて思い知らされます。

創業当初からの変化を追いかけました。
*時代時代で深刻な事件も数多くありました。

深刻な事態は『赤文字』で、好転やいい話は『青文字』で書いています。
注目点は『下線』を引いています。

銚子電鉄のお話は1911年から始まります。

【開通前】

明治44年(1911)ころ、銚子遊覧鉄道の開通のため埋め立て工事がすすめられた。
観音駅からもと銚子駅までの土手の造成が『ゲンバ山』を掘って割って行われた。

人々は開通をとても楽しみに待っていたそうです。

【銚子遊覧鉄道】

(イ) 1913年(大正2年)1月15日、銚子電鉄の前々身の『銚子遊覧鉄道』が誕生。

遊覧鉄道は観光客のための列車で、銚子駅を出発し終着駅は犬吠(江戸時代からの観光地)駅でした。
*全長は5.8km、観光のための鉄道でありながらレールの間隔は国鉄の貨物が直接乗り入れできる1067ミリでした。

乗降客が減り収益が落ち込み、会社は1917年(大正6年)11月20日に運行をストップし鉄道は廃止になりました。営業していたのは4年間です。

【銚子鉄道】

(ロ) 1923年(大正12年)7月5日、銚子電鉄の前身、『銚子鉄道』がスタート。

外川までレールを延長(全長6.4キロメートル)しましたが、当初使用していたガソリン機関車の調子が悪かったので運行に支障が出ていました。

そこで当時の鉄道の動力の主流は蒸気機関でしたが、電気を使うことになりました。
当時としては画期的なことでした。

1925年(大正14年)7月1日電気で走る電車としてスタートしました。
(長野の伊那電気鉄道から資金のバックアップを受ける)

外川で獲れた魚や犬吠で産出される石材の輸送の役割もありました。
犬吠埼の岩石は砂岩のため、荒砥(砥石)や住宅の土台、石垣などに用いられていました。
琥珀の産出地としても有名でした。

(ハ) 昭和初期、主に醤油原料輸送など貨物の売り上げで稼ぐ。

太平洋戦争が始まると『黄金期』が訪れました。
戦争の影響でガソリンが不足してバスが運行できず皆が電車に乗ったのです。

(ニ) 昭和20年(1945)7月20日、終戦直前の空襲で仲ノ町変電所が焼失し動力源を断たれた。廃止も検討された。

(ホ) 昭和22年6月10日、変電所施設を復旧し電車の運転を再開

【伊那電気鉄道】戦前にあった長野の鉄道会社です。
長野県最初の私鉄で、路線は現在のJR東海飯田線の前身の一つである。
出典:ウイキペディア

【銚子電気鉄道株式会社】

1、 1948年(昭和23年)8月20日社名が現在の『銚子電気鉄道株式会社』が誕生。
イワシ漁業も外川漁港が設備不足であったため、漁船は銚子漁港へ水揚げして停泊するしかなく、銚子漁港から出港するため、外川の漁師は早朝3時外川から銚子漁港へ電車で移動していた。

昭和20年代は全国的には鉄道の全盛期であった。

銚子電鉄の乗降者数は1951年にピークになりました。

銚子電鉄は酷使と資材不足で故障が続出していた。

3、昭和40年代、自動車の普及やバスなどの交通手段の拡大で移動手段が変化、赤字になり何度も廃止の声が挙がり、経営の母体も何度か変わった。

1968年(昭和43年)犬吠駅の近くにある県営採石場の採掘がストップ、砕石の搬出がなくなる。

1969年(昭和44年)から銚子市からの補助を受けるようになった。

1975年(昭和50年)国からの援助金を受ける。

4、 1976年 (昭和51年)観音駅でたい焼きを販売開始、増収のアイデアとして話題になる。

「およげ、タイヤキくん」の歌が大流行したのもこの年です。
価格は1個50円でした、現在は販売駅が犬吠駅に変わり、価格は120個円(税込み)です。
(味は、あんことクリーム味の2種類)価格は2022年時点です。

*ここまでお読みいただきありがとうございました。
(お話は「2-深刻な事件の連続からエンタメ電車へ」続きます。)