「武蔵野」国木田独歩著-感想-詩情に満ちた浪漫主義の名作

小説の中で栞をはさんで読み込みたい箇所

P7-8、P9-11、

独歩はいままで画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤(おもかげ)ばかりでもみたいといい。
今の見ている武蔵野の美しさが、いかに自分の気持ちを動かしているのかを書く。
その発端となった武蔵野の秋から冬の佇まいを書いた日記を種とする。

P13-15

武蔵野の林を観察していた時に発見したことを書いている。
その林を珍重する理由を木の種類から風情を細かく解説していたり、鳥・虫・犬・生活音も登場し表情豊か。
歌の引用もあり短い文章の中に沢山の情報がある。

P17~

最初は露西亜のツルゲーネフの林の文章を引用して武蔵野の違い(特徴)を語っている。
最後の文章で独歩が武蔵野の描写から自分の心の内を書いている一節が心に残る。
(独歩の生きてきた道が垣間見えるようです。)
【ツルゲーネフ(1818-1883)】
ロシアの作家。人道主義の立場から社会の重要な問題を取り上げた。
作「猟人日記」「ルージン」「父と子」「処女地」など。

P18~19、

“武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる”。
そして思いつきの散歩から、武蔵野の特徴をあらわしていく。
(路の描写の種類には感嘆するばかり)
林と野が入り乱れて、小径(しょうけい)から三条、小さな林に、。
自然は広い野、畑、低い林、坂など変わっていく風景を多彩に表現。
(武蔵野の様々な路を歩いているようだ。その可能性は人生の道を連想せざるを得ない。流れるような描写が心に残ります。)
【小径(しょうけい)】こみち、ほそみち。

P20、

人との出会いから庭先へ、最初から高いところを目指しても難しいという。
道を聞いて人生を歩くことの意味。様々な出会いがある。
そして帰り道に、同じ道を引き返して帰るは愚だという。
それは若い時の経験が大切といっているようでもある。

P21~

そして日が落ちていく。風が強く、林も鳴る。
寒さが身に染みる。散歩が終わってしまう寂しさも表現している

3年前の話に戻る。
自分と友の話。夏に出かけた散歩の話。
茶屋の婆さんとの会話では独歩の散歩好きが垣間見える。
会話にユーモアがあっておかしい。
武蔵野の夏の散歩の楽しさが。描写がとてもきれいだ。
桜の名所を春に訪れるのは確かに間違えが無いが、夏にでかけているのは若さゆえか。

P23~

水上の描写、光と影の対比。水の流れと雲の流れが影をつくる。
水の発する音のなんと人懐かしいことか。

朋友の手紙を引用して、彼が自分で定めた一種の武蔵野の話になる。
東京の権力や裁判など人を治める場所を武蔵野を一緒にすることは出来ないという。
(当時すでに都会と田舎との境目ができていたのだろうか。その人口の集中は効率を求め始めて喧騒も生んでいる。
自然を振り返る所か、その息遣いをも感じられなくなっている?)

都会から見るとしているが、本当は武蔵野を散歩して気づいたのか、振り返る姿がある。
変わりゆく都会と地方との境目にある、武蔵野の価値をあらわしている。

時代が変わっていく。人間は何処に向かっているのか。
しかし独歩は武蔵野は便利のために利用するものではないと言い切る。
人が定めた平野ではないと。

「歴史の原」「限界」「国境など定められたもの」ではない。
武蔵野は東京の中に在るが、東京は抹殺しなければならないとしている。

P25~

武蔵野の詩趣を描くには“町外れ”を一の題目とせねばならぬといい。
その生活と自然と密接していることが面白いという。

そして武蔵野の味を知るには、首都東京を振り返った考えで定めなければいけないという。

話は小金井の水流に移る。
川辺・水辺の夜に見た風景を書いている。ここの表現が美しい。

P28~

一種の生活と一種の自然を配合して一種の光景を呈している場所を描写することが、
なぜ我々の感を惹いてやまないのだろうか。
その問いに、町はずれの光景は社会の縮図を見るような思いにするから。
小さな物語が隠れているからではないかという。

*武蔵野の美しさが散文詩のようでもあり、その点で「武蔵野」が小説と言い切れるかは疑問。
しかし鋭い観察眼で、武蔵野の自然がありありと目に浮かびます。
そのまなざしの先には人間の生活が想像されます。
文章の合間に彼の人生観も垣間見える。

言葉が詩的で表情が豊か。文章全体に奥行きを感じました。
本のあとがきにもありましたが、「詩情に満ちた自然観察」から書かれた武蔵野の林間は名作にふさわしい佇まいです。時代を越えて響く理由がわかりました。