銚子市公正図書館はなぜ「公正」がついているのか-濱口梧洞が目指した社会教育とは

財團法人公正會設立にみる濱口儀兵衛の強い思いとは

旧公正市民館の前には濱口梧洞(儀兵衛)の銅像があります。

濱口梧洞-銅像
濱口梧洞-銅像

銚子の社会教育を思を致し、滋賀県長浜町の財団法人下郷共済会・丸亀市財団法人共済会等の施設を調査してその範とすべきを採りました。

銚子市公正図書館の名前に残る「公正」には、濱口梧洞の強い思いがありました。

彼が私財を投じて建設した公正会館は、夜間中学公正学院・公正図書館の設置運営・講堂利用による各種社会教育活動・人事相談所などの施設を具備し地域を支えました。
この施設は当時の銚子町を中心として二町二ヶ所の“総合社会教育機関”として社会に多大な利益をもたらしました。

昭和31年1月には彼の公益に貢献した仕事に対して、銚子市名誉市民に推挙。
*推挙式は同年3月に公正市民館講堂にて盛大に挙行されました。
この式では「今井健彦」も名誉市民として推挙。今井は千葉県選出議員として浜口吉兵衛とともに銚子港の開発・利根川治水に多大な功をのこした人です。

濱口梧洞(1874-1962)が残したもの

彼は明治7年4月八代目儀兵衛(梧荘)の次男として紀州に生まれました。
明治32年には銚子に我が国最初の醤油研究所を設置しました。

大正3年(1914)第一次世界大戦が勃発。
この年に梧洞は、浜口合名会社からヤマサ醤油を買い戻して、浜口儀兵衛商店を設立します。
大正7年(1918)第一次世界大戦が終戦。
この年にヤマサ醤油はヤマジュウ醤油を買収合併しています。
大正12年(1923)関東大震災が起きます。
この年に銚子町新生に本社事務所および研究所を新築・移転。
西六ノ蔵が出来上がり第二工場が完成し生産能力も上がりました。
梧洞は昭和3年から昭和18年まで「ヤマサ醤油」の主宰者(10代目)として家業に精励。
動乱の時代、確かなかじ取りで経営をすすめました。

大正15年銚子に公正会館を建設。大正14年に貴族院の補欠選挙に当選し昭和14年まで国政につくしました。
大きな視野をもっていました。

祖父の濱口梧陵(1820-1885)が銚子のみならず千葉県の医学体制に多大な公益をもたらしたのと同様に、 濱口梧洞(1874-1962)は社会教育・政治で地元に大きな公益をもたらしました。
そして醤油家業だけにとどまることはなかった。
彼は将来の銚子地域の発展を願いました、「公正會」を立ち上げ社会教育をすすめました。
教育を柱にして人を育てる、文化活動を柱に交流を育てる。
住民と地域を愛していたのではないかと思いました

第二次世界大戦末期、銚子は三度空襲を受け、市街地は壊滅的な被害に遭いました。
この時、焼失を免れた公正會館が病院として利用され、負傷者の治療が行われたと伝えられています。
(出典:「7つの銚子ものがたり」銚子資産活用協議会刊)

*「銚子市史」「財団法人公正會と公正會館」「旧公正市民館の看板」「年表、江戸・明治・大正の銚子」を参考にしました。
最後までお読みいただきありがとうございました。